12月8日、ジョン・レノンを愛する人たちがとあるinternet掲示板で、「愛と平和」というイメージとジョン・レノン自身との関係について熱く語り合っていた。どの人の意見も自分の考えを的確に表現していて、それぞれのジョン・レノンへの思いをストレートに感じさせてくれるものだった。人を熱く、どこまでも正直にさせずにはいられないジョン・レノンという人、すごいなあ、と思わされた。人の耳元をかすめ、ほんの少しの間だけ気分よくさせてくれる、もちろんそれも素敵な音楽には違いないけれど、それ以上の力をジョン・レノンの音楽は持ちえているということだ。人を正直にせずにはおられない音楽。
でもその掲示板の論争を読んでいて、俺はどうしてもその中に入れなかった。そこにある「ムキさ加減」にとてもついていけなかったのだ。
どうしてみんな、ジョンのことになるとああもムキになるんだろう。ムキになって自分の「ジョン・レノン観」を人に押し付けようとするんだろう。「ジョンはただの魅力的な人間だったんだ!愛と平和なんて口当たりのいい言葉で矮小化するな!」、そんなこたあ誰に言われなくたって、みんな知ってることだ。
"In My Life"
"The Ballad of John & Yoko"
"Across The Universe"
"Love"
"Imagine"
"MInd Games"
"#9 Dream"
"(just like) Starting Over"
"Woman"
"Watching The Wheels"-----etc.etc.....
魅力的な人の作った、とてつもなく魅力的な曲の数々。
心に染み入らせれば染み入らせるほどに豊かな気分にさせてくれる。
ジョン・レノンは嘘だけは歌わなかった。
偽善者扱いされようと、心から感じたことはそのまま歌った。
体のど真ん中からこみ上げてくるものだけを歌った。
体のど真ん中からこみ上げてくるものは、とにかくどれもこれも躊躇せずに歌った。
…………
結果、ジョン・レノンは「愛」と「平和」と「真実」の人になった。
歌より夢中になれる対象(ショーン)が現れたら、歌を投げ出してしまったが、そのことさえも逆に彼の人物イメージに厚みを与える結果となった。
そしてそのイメージ――特に「平和」と「真実」のイメージ――が、ある方面の人間たちを過敏にさせた。
俺はどんな人の歌を聞く時でも「…………」の所まででいいのだ、といつも思っている。「…………」の所までを感じられたらいつも決まって感動してしまう。その感動は拍手以外の形で歌った本人には返したくない、返すべきじゃないと思っている。どこでも誰にも、できることなら語りたくない。それはあくまで俺の感慨に過ぎないんだから。もし同じ曲を誰かと一緒に聞いて、そのよさを共有できたら、ただひとこと、「いいねえ」とか「すごいねえ」とかとだけ言う。
音楽を議論したくない。