河原純一ベスト10 | ロロモ文庫

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河原純一は川崎北高3年時に出場した1990年夏の甲子園神奈川県大会では準々決勝の厚木高で、後に横浜へ入団する川村丈夫と延長16回の投手戦の末に投げ勝ちベスト4まで進みます。

卒業後は駒澤大学へ進学し、3度の最高殊勲選手に輝くなどエースとして活躍し、リーグ通算53試合に登板し23勝10敗、防御率1.66、258奪三振をマークし、2年次の第21回日米大学野球から3年連続で日本代表に選出され、全日本大学野球選手権大会を制した4年次には全日本アマチュア野球王座決定戦で社会人王者の日本通運を破って最高殊勲選手に選ばれ、1994年のドラフト会議で巨人から1位指名(逆指名)を受け入団します。

ルーキーイヤーの1995年は8勝(そのうち阪神からは3試合連続完封を含む6勝)を挙げるなど活躍しますが、1996年は開幕からローテーションに入りますが、未勝利のまま5月末に一軍登録を抹消され、チームはリーグ優勝したものの、自身は9試合しか登板できずに終わります。

1997年は主に中継ぎで登板し1998年は故障で、一軍・二軍ともに登板がないまま終わり、1999年は8月8日の広島戦で先発登板し、1995年9月23日の阪神戦以来で1461日ぶりである先発での勝利投手となり、2000年はシーズン途中から先発入りし、3試合の完封勝利をあげますが、この年も途中で故障離脱となりチームはリーグ優勝・日本一になったが日本シリーズにはまたしても登板出来図に終わります。

2001年は5月末からローテーションに加わり、ルーキーイヤーに次ぐ12試合に先発登板ますが終盤はリリーフに廻り、2セーブを記録し、2002年は抑え投手に抜擢され、開幕4試合目の中日戦に初セーブを記録し、オールスターゲームにファン投票で選出され、巨人のリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、日本シリーズにも初登板を果たし、第4戦では胴上げ投手になります。

2003年は4月9日のヤクルト戦でシーズン初セーブをマークしますが、徐々に救援失敗を繰り返すようになり、結局23試合の登板に終わり、2004年は前年を下回る13試合の登板に留まり、2005年3月27日に後藤光貴との交換トレードで西武ライオンズへ移籍します。

2005年は4年ぶりに先発復帰となり、4月9日のソフトバンク戦で移籍後初先発初勝利を挙げると、6月11日の古巣の巨人戦で勝利投手となりますが、一軍での先発登板は自己最多の19試合でしたが、2勝11敗と大きく負け越し、2006年は一軍登板はなく、2007年は2度先発登板したものの0勝2敗で、オフに球団から戦力外通告を受けます。

2007年11月、12球団合同トライアウトへ参加するも獲得球団は現れず、12月に浪人を決意し、2008年10月、中日ドラゴンズの入団テストを受験し合格し、2009年は5月24日の日本ハム戦で初ホールドを記録。2010年は4試合の登板にとどまりますがポストシーズン(巨人とのクライマックスシリーズ、ロッテとの日本シリーズ)ではレギュラーシーズンを上回る5試合に登板した。日本シリーズ第7戦では打ちこまれ、チームも延長戦で勝ち越され日本一を逃します。

2011年は30試合に登板し、ヤクルトとのクライマックスシリーズとソフトバンクとの日本シリーズの計3試合でリリーフ登板しますが、球団から戦力外通告を受け、通算275試合に登板して31勝42敗30セーブ27ホールド防御率4.26をマークしたわけです

10位は8試合に登板して2勝2敗0セーブ防御率4.85をマークした1999年。9位は7試合に登板して4勝0敗0セーブ防御率1.42をマークした2000年。8位は20試合に登板して2勝11敗0セーブ0ホールド防御率5.38をマークした2005年。7位は25試合に登板して2勝2敗1セーブ防御率2.60をマークした1997年。6位は21試合に登板して4勝4敗2セーブ防御率5.94をマークした2001年。

5位は23試合に登板して0勝3敗7セーブ防御率9.41をマークした2003年。4位は30試合に登板して1勝4敗0セーブ10ホールド防御率2.66をマークした2011年。3位は44試合に登板して3勝0敗0セーブ15ホールド防御率1.85をマークした2009年。2位は19試合に登板して8勝6敗0セーブ防御率3.31をマークした1995年。1位は49試合に登板して5勝3敗28セーブ防御率2.70をマークした2002年となるわけです。