梶本隆夫ベスト10 | ロロモ文庫

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梶本隆夫は多治見工では、2年次の1952年には秋季中部大会に進みますが、1回戦で浜松北高に惜敗し、1953年春の選抜への出場を逸し、1953年の夏の甲子園岐阜県予選では。2回戦の郡上高戦で完全試合(7回コールド)、準々決勝で関一高戦でノーヒットノーラン、決勝の岐阜高戦でもノーヒットノーランで降して優勝し、三岐大会に進出すしますが、決勝で津高に完封負けを喫し、甲子園出場はならず、高校卒業後に阪急ブレーブスに入団します。

ルーキーイヤーの1954年は開幕投手に指名され、3月27日の高橋ユニオンズ戦で、勝利投手となるなど、オールスターゲームまでに12勝を挙げてファン投票で1位で選ばれ。同年は55試合に登板して20勝を挙げるも、新人王争いは26勝の宅和本司(南海)に敗れます。

2年目の1955年も18勝し、1956年には28勝にリーグトップの327奪三振を挙げて絵ベストナインに選ばれますが、大映の三浦方義(29勝)に阻まれて最多勝を逃し、1957年にも24勝と2年連続20勝、1960年にも21勝を挙げるなどエースとして阪急を支えます。

この間の1954年7月10日の近鉄パールス戦では、日本プロ野球史上初となる「1イニングに三者連続三球三振」を達成し、1957年10月18日の南海戦で2回目を記録。1957年7月23日の南海戦で9連続奪三振を達成し、1959年6月12日の近鉄戦では9回2死まで無安打に抑えながら、最後の打者に安打を打たれてノーヒットノーランを逃します。

1967年は15勝を挙げて念願の初優勝に貢献し、同年に通算200勝を達成。1967年から1971年まで、巨人との4度の日本シリーズでは9試合に登板し、通算1勝3敗に終わり真価を発揮できず、1973年限りで現役を引退し、通算867試合に登板して254勝255敗防御率2.98をマークしたわけです。

10位は50試合に登板して14勝15敗防御率3.28をマークした1962年。9位は37試合に登板して15勝9敗防御率2.44をマークした1967年。8位は54試合に登板して17勝23敗防御率2.80をマークした1961年。7位は44試合に登板して16勝18敗防御率2.99をマークした1958年。6位は49試合に登板して18勝14敗防御率2.86をマークした1955年。

5位は48試合に登板して21勝18敗防御率2.54をマークした1960年。4位は40試合に登板して18勝10敗防御率2.97をマークした1969年。3位は55試合に登板して20勝12敗防御率2.73をマークした1954年。2位は53試合に登板して24勝16敗防御率1.92をマークした1957年。1位は68試合に登板して28勝17敗防御率2.25をマークした1956年となるわけです。