晩春 | ロロモ文庫

ロロモ文庫

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鎌倉に住む大学教授の曾宮周吉の一人娘である紀子は、東京に買い物に行った際に周吉の友人で京都に住む小野寺と出くわす。「おじさま」「いやあ、太ったね。紀ちゃん」「そうかしら」小野寺に奥様をもらったそうねと聞く紀子。「うん。もらったよ」「美佐子さんが可哀そうだわ」「どうして」

「やっぱり変じゃないかしら」「そうでもなさそうだ。うまくいってるらしいよ」「そうかしら。でもなんだか嫌ね」「何が。今度の奥さんかい」「ううん。おじさまがよ」「どうして」「なんだか、不潔よ」「不潔」「汚らしいわ」「汚らしい。そうかひどいことになったな。これは弱ったなあ。ははは」

周吉の家に行く小野寺。「紀ちゃんはもうすっかり元気だね」「うむ」「やっぱり戦争中、無理に働かされたのがたたったんだね」「うん。それにたまの休みも買い出しで」「それじゃあ痛むわけですよ」奥さんは元気かと周吉に言われ、えらいものもらっちゃったよと言う小野寺。

「何が」「紀ちゃんに不潔扱いされちゃったよ」「誰が」「俺がだよ」「そうか。美佐ちゃんは元気かい」「あいつもどこから聞いたのか人生は結婚の墓場なりとか言いやがってね。いつまでもお嫁に行かないと言うんだ」「ふうん」「紀ちゃんはどうなんだい」「あいつもそろそろなんとかしなきゃいけないんだがね」「27だね」「うむ」

妹のまさの家に行く周吉。「紀ちゃん、お嫁の話はどうなの。もう体の方はすっかりいいんでしょう」「ああ。そりゃいいんだがね」「本当ならとうに行ってなくちゃ」「うん」「あの人どうなの。兄さんの助手の」「ああ。服部かい。いい男だが、紀子がどう思ってるか。大変当たり前にあっさりつきあっているが」「それはわからないわよ。お腹の中で何を思ってるか」「そうかね」「そうよ。そういうもんよ。今時の若い人たちですから」「そうかね」「一度聞いてごらんなさいよ。紀ちゃんに服部さんをどう思うって」

家に戻った周吉に昼間に服部が来たと言う紀子。「散歩に行ったのよ。自転車で」「服部とかい」「いい気持ちだったわ」「服部、何だって」「ううん。別に」食事をする周吉と紀子。「お前、服部をどう思う」「いい方じゃないの」「うん。ああいうのは亭主としてどうなんだろう」「いいでしょう、きっと。優しいし」「そうか。そうだね」

「私、好きよ。ああいう方」「おばさんがどうだろうと言うんだ」「何が」「お前をさ。服部に」大笑いする紀子。「どうした」「だって服部さん、奥さんおもらいになるのよ。とてもかわいくて綺麗な方」「そうか」「いずれお父さまに話があるわ。私、その方、よく知ってるのよ」「そうか」

周吉の家に遊びに来る紀子の女学校時代の同級生のアヤ。「紀ちゃんは」「もうすぐ帰ってくる。速記の仕事はどうだい」「まあまあね」「最近はお父さんやお母さんは言わないかい」「何を」「お嫁の話」「ええ。ここんとこしばらく」「結婚は一度でこりごりかい」「そうでもないけど」戻ってきた紀子にどうして同窓会に行かなかったのと聞くアヤ。

「もう、あんたと浩子さんだけよ、お嫁に行かないの」「そう」「いつ行くの。あんた」「行かないわよ」「行っちゃいなさいよ」「何言ってるのよ。あんたにそんなこと言う資格ないわよ」「あるわよ」「ないない。出戻り」「あるある。まだワンアウトだもん」「あんたまだヒットを打つつもり」「そうさ。第一回は選球に失敗したけど、今度はいい球を打つわよ」

見合いする気はないかと紀子に言うまさ。「一度会ってみない」「……」「佐竹さんって、東大の理科出た人で、おうちは伊代の松山の旧家なの。今、丸の内の日東化繊にお勤めでね。年は34で、あんたとちょうどいいし、お勤め先でもとっても評判のいい方なのよ」「……」「ゲーリー・クーパーに似てるの。口元なんかそっくりよ。鼻から上は違うけど」「……」「ねえ、どう、一度会ってみない」「私、まだお嫁に行きたくないのよ」「まだって、どうしてよ」

私がお嫁に行くと困るのと言う紀子。「何が」「お父さんがよ。私がいなくなると、お父さんきっと困るわ」「困るってしょうがないわよ。お父さんはお父さんとして、あんたはどうなのさ」「私、それじゃいやなの」「そんなこと言ってたら、あんたは一生お嫁に行けないよ」「それでもいい」「ねえ、紀ちゃん、お茶の会でよく一緒になる三輪秋子さん。あの人、お父さんにどう?」「どうって」「あんたがいなくなるとお父さんも困るだろうし」「……」

「どうせ誰かに来てもらうんなら、あの人なんかどうかしら」「……」「あの人も旦那様もなくして子供もなく気の毒な人なのよ」「その話はお父さんは知ってらっしゃるの」「この間、ちょっと話をしてみたけれど」「お父さん、なんとおっしゃって」「ふんふんとパイプ磨いてたけど、別に嫌でもなさそうだった」「だったら私に聞くことはないわ」「でも、あんたの気持ちを聞いてみないと」「いいんでしょう。お父さんさえよかったら」

おばさんの話は何だったと紀子に聞く周吉。「……」「なんだ。どうかしたのか」「……」「どこへ行くんだ」「買物」紀子は周吉と能を見に行くが、周吉が秋子に会釈するのを見て表情を変える。「今日の能はよかったな」「……」「多喜川でご飯でも食べて帰ろうか」「私、ちょっと寄り道があるの」「どこへ」「ちょっと」「帰りは遅くなるのか」「わからない」

どうしてそんなに気になったのと紀子に聞くアヤ。「ねえ、どうして」「ただ、なんとなしに。ねえ、速記者になるって難しいの」「たいして難しくないわよ。私だってやってるんだもの。だけど、あんた今からそんなことしてどうするつもりなの」「ただ、なんとなしに」「なんとなしにやられてはかなわないわよ。出戻りで敷居が高いから始めたのよ。あんたなんかさっさとお嫁に行けばいいのよ」「そんなこと聞いてなんかいないわ」「いいから、ただなんとなしに行っちゃいなさい」

家に戻った紀子にまさから手紙が来たと言う周吉。「明後日、お前に来てくれって言ってる」「……」「あらましの話はこの間行った時に聞いたんだろう。一度会ってごらん。その人も来るそうだ」「その話、お断りできないの」「まあ一度会ってごらん。嫌ならその上で断ったらいいじゃないか」「……」「その男は佐竹って言うんだが、お父さんも会ってみたが、なかなか立派な男なんだ。あれならお前に不満はなかろうと思うが、まあ明後日会ってごらん」「……」「お前もいつまでもこのままでいられないし、いずれはお嫁に行ってもらわねばならん」

私はこのままお父さんと一緒にいたいと言う紀子。「そうもいかんさ。そりゃお前がいればお父さんは重宝なんだが」「だったら私はこのまま」「いや。それはいかんよ。お父さんは今までお前を重宝に使いすぎて、済まんことをしたと思ってるんだ」「だけど、私が行っちゃったらお父さんはどうなさるの」「お父さんはいいさ」「いいって」「どうにかなるさ」

「それじゃ私は行けないわ。ワイシャツだってお父さんは汚れたままでも平気だし、朝だってきっとおひげを剃りにならないわよ」「ひげくらい剃るさ」「私がいないとお父さんがお困りになるのは目に見えてるわ」「だが、もし、そんなことでお前に心配をかけないとしたらどうだろう」「……」

「仮に誰かお父さんの世話をしてくれる人がいたら」「誰かって」「例えばだよ」「じゃあ、お父さん。小野寺のおじさんみたいに、奥さんをおもらいになるの」「うん」「じゃあ、今日の方ね」「うん」「もう決まってるのね」「うん」「本当ね。本当なのね」「うん」ショックを受ける紀子にとにかく明後日行ってくれと言う周吉。「みんながお前のことを心配してるんだから」「……」「いいね。行ってくれるね」

紀ちゃんは何と言ってるのと周吉に聞くまさ。「別に何とも言わないんだよ」「お見合いが済んで一週間になるのに。ご返事しない訳に行かないわよ」「そうなんだが、あまりせかせるとね」「先方じゃ大変乗り気なのよ。あの人なら紀ちゃん言うことないと思うんだけど」「うん」「紀ちゃんだって気に入ってるのよ。きっとそうよ」財布を拾うまさ。「兄さん。運がいいわよ。この話はきっとうまく行くわよ」「お前、届けないのかい」「届けるけどさ。だって縁起がいいじゃない」警官が現れて速足になるまさ。「兄さん、行きましょう」

どんな人なのと紀子に聞くアヤ。「学生時分、バスケットボールの選手だったんだって」「ふうん。いい男?」「おばさんはゲーリー・クーパーに似てるって言うんだけど」「じゃあ、凄いじゃないの」「でも、私はうちに来る電気屋さんに似てる気がするの」「その電気屋さん、クーパーに似てる?」「とてもよく似てるわ」

「じゃあ、その人はクーパーと似てるんじゃない。なにさ。ぶつよ」「……」「でも、あんたにしては感心よ。よくやったわ、お見合いを」「……」「考えることないじゃないの。行っちゃいなさいよ」「でも、いやあね。お見合いなんて」「贅沢言ってるわ。あんたなんかお見合いしなきゃお嫁に行けやしないじゃないの」

紀ちゃんは遅いわねと周吉に言うまさ。「私、帰ろうかしら」「いや、次の電車で帰ってくるよ。まあいい返事をしてくれるといいが」「大丈夫よ。紀ちゃん、気に入ってるけど、テレてるのよ」「そうかな」「でもつまんないこと気にしてるんじゃないかしら」「なにを」「名前。佐竹さんの」「佐竹熊太郎か」「うん。熊太郎」「いいじゃないか。強そうで」

「だって、熊太郎なんて、このへんにもじゃもじゃ毛がはえてそうじゃない。若い人はそういうの気にするのよ」「そうかね」「だって紀ちゃん、行くでしょう。私、なんて呼んだらいいの。熊太郎さんじゃ山賊呼んでるみたいだし、熊さんと言えば八っあんみたいだし、だからと言って熊ちゃんと呼べないじゃないの」「でも、何とか言って呼ばないとしょうがない」「そうなのよ。だから私、クーちゃんと呼ぼうと思うんだけど」「クーちゃん?」「どう」「うむ」

帰ってきた紀子にこの間の返事はどうと聞くまさ。「ねえ、どう」「……」「本当にいい縁だと思うんだけど」「……」「ねえ、行ってくれる」「ええ」「本当?行ってくれるのね」「ええ」「ありがとう、すぐご返事するわね」紀ちゃんは行ってくれるわと周吉に言うまさ。「そうか。それはよかった」「本当によかった。じゃあ、私はお暇するわ。先方にご返事するから」「ああ。頼むよ」

「やっぱり、がま口拾ったのがよかったのよ」「おい、それ届けておけよ」「大丈夫よ。届けるわよ。じゃあ、さよなら」紀子にいいんだねと確認する周吉。「ええ」「お前、いやいや行くんじゃないね」「そうじゃないわ」「そうかい。それならいいんだけど」

紀子と京都に旅行する周吉は、小野寺に紀子が急に嫁に行くことになったと話す。「そうかい。それはよかった」清水寺で後妻のきくを周吉と紀子に紹介する小野寺。美佐子との再会を喜ぶ紀子に、どうだいと聞く小野寺。「うちの不潔なのは」「いやなおじさま」旅館に戻る周吉と紀子。「今日は随分歩いたなあ。お前、疲れなかったか」「いいえ」「明日はお前はどうするんだい」「10時くらいに美佐子さんが来てくれるって」「そうか。じゃあ寝ようか」

蒲団に入る二人。「ねえ」「うん」「私、知らないで、おじさまに失礼なこと言っちゃって」「何を」「おばさまはとってもいい方だわ。おじさまともお似合いだし。汚らしいなんて言うんじゃなかった」「いいさ。そんなこと」「とんでもないこと言っちゃって」「本気になんかしてないよ」「そうかしら」「……」「ねえ、お父さん。私、お父さんのこととても嫌だったんだけど」「……」

竜安寺で会う周吉と小野寺。「しかし、よく、紀ちゃん、やる気になったねえ」「うん」「あの娘ならきっといい奥さんになるよ」「持つならやっぱり男の子だね。女の子はつまらんよ。折角育てると嫁にやるんだから。ゆかなきゃゆかないで心配だし、いざゆくとなるとなんだかつまらないよ」「そりゃしょうがないさ。我々だって育ったのを貰ったんだから」「そりゃあまあ、そうだ」

帰り支度をする周吉と紀子。「早いもんだね。来たと思ったらもう帰るんだね」「ええ。でもとても楽しかった。京都」「うん。よかったよ。こんなことならお前ともっと方々行っとくんだったよ。これでもうお父さんとはおしまいだね」「……」「これからは佐竹君にいろんなところに連れてってもらうんだよ」「……」「どうした」

このままお父さんといたいのと言う紀子。「どこへも行きたくないの。こうしてお父さんと一緒にいるだけでいいの。お嫁に行ったってこれ以上の楽しみはないと思うの」「だけど」「お父さんがお嫁さんをもらってもいいの。だけどやっぱり私はお父さんのそばにいたいの」「……」「お父さん、お願い。このままにさせといて」

それは違うと言う周吉。「そんなもんじゃないさ。お父さんはもう56だ。お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。だけどお前たちはこれからだ。ようやく新しい人生が始まるんだよ。佐竹君と作り上げていく。お父さんとは関係のないことなんだよ。それが人間生活の歴史の順序というものなんだよ」「……」

「それは結婚してすぐに幸せになれないかもしれない。そういう考えはむしろ間違ってるんだよ。幸せは待ってるものじゃなくて、自分で作り出すものなんだよ。結婚することが幸せじゃない。新しい夫婦が新しい生活を作り上げることに幸せがあるんだ。それでこそ幸せになれるんだ」「……」

「お前のお母さんだって初めから幸せじゃなかった。長い間にはいろんなことがあった。台所の隅で泣いているのをお父さんは幾度も見たことがある。でもお母さんはよく辛抱してくれた」「……」「お互いに信頼するんだ。お互いに愛情を持つんだ。お前がお父さんに持ってくれた温かい心を今度は佐竹君に持つんだよ」「……」

「そこにお前の本当の新しい幸せが生まれるんだ」「……」「わかってくれたね」「ええ。わがまま言ってすいませんでした」「わかってくれてよかったよ。お前ならきっと幸せになるよ。お父さん、楽しみにしてるよ。そのうちに今晩こんな話をしたことがきっと笑い話になるよ」「すいません。いつもご心配をかけて」「なるんだよ、幸せに」「ええ、きっとなって見せますわ」

美しい紀子の花嫁姿を見て感激するまさ。「綺麗なお嫁さんになって。亡くなったおっかさんに一目見せてあげたかった」「……」「兄さん、紀ちゃんに何か言うことは」「いや、もう何も言うことはないんだ」周吉に感謝する紀子。「お父さん、長いこと、お世話になりました」「うん。幸せに。いい奥さんになるんだよ」「ええ」「なるんだよ。いい奥さんに」「ええ」

多喜川で酒を飲む周吉とアヤ。「アヤちゃん、どう」「ええ。これで三杯目よ」「うん」「あたし、五杯までは大丈夫なの。いつか六杯飲んだらひっくり返っちゃった。紀ちゃんはどのへんかしら」「うん。大船あたりかな」「おじさんもこれから当分寂しいわね」「うん。そうでもないさ。じきなれるさ。アヤちゃん、どう。四杯目」

「ええ。ねえ、おじさま。おじさまは奥様をもらいになるの」「どうして」「だって、紀子、気にしてたわ。一番そのことを気にしてたみたい」「……」「およしなさい。そんなもの貰うのは」「ああ」「本当よ」「ああ。でも、ああでも言わないと紀子はお嫁に行ってくれなかったよ」

周吉のおでこにキスをするアヤ。「おじさま、いいとこあるわ。感激しちゃった。いいわよ、さびしくないわよ。さびしくなったら、時々遊びに行ってあげる」「本当に遊びに来てくれるね、アヤちゃん」「行くわ。ああ、いい気持ち。はい、五杯目」「……」「おしまい」「アヤちゃん、本当だよ。本当に来てくれるね。おじさん、待ってるよ」「ええ行くわ。私、おじさまみたいに上手な嘘をつけないわ」「ははは。しょうがないさ。おじさんだって一生一代の嘘だったんだ」

誰もいない自宅に戻った周吉は、大きくため息をついてリンゴの皮をむくと、がっくりと首をたれるのであった。