江分利満氏の優雅な生活 | ロロモ文庫

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サントリーの広告宣伝部に勤務する三十六歳のサラリーマン江分利は、「面白くない」と呟き、いろいろな人に「面白いかい?」と聞く。バーテンは「まあ」と答え、スナックのママは「面白いわ」と答え、スナックのホステスは「面白くない」と答える。「私は黒犬よ。尾も白くない」泥酔した江分利は大丈夫ですかと声をかけられる。「面白いかい」「面白くないよ」「そうだろう」「じゃあ面白いところに行こう」「面白いところなんかないよ」「まかしとき」

翌日会社に行った江分利に佐久間という男が訪ねる。「本当にご無理なお願いを聞いいただいてありがとうございます」「は」「今朝、編集会議で話したところ皆大喜びなんです」「いったい何の話でしょう」「はあ」「おたくの雑誌にはビールの広告は」「ご冗談でしょう」「僕は何も覚えてないんですが、昨夜何かお約束を」「原稿のことですよ」「原稿?」「昨夜、私どもの雑誌に原稿を書いていただくようお願いしたら、必ず傑作を書くから楽しみにしてくれと」「ぼ、僕が言ったんですか」

こうして江分利は小説を書くことになる。いったい何を書くの、と聞く妻の夏子。「恋愛小説?」「別に恋愛小説じゃなくても」「じゃあ推理小説。女が男を殺すやつ」「婦人画報に乗るんだろう。女の知らないサラリーマンの生活を書いてやろうか」「それいいわ」「平凡なサラリーマン。才能のない奴、だらしのない奴が一生懸命生きること。それが書けたらなあ」「とにかく書いてみたら」「うん」「原稿料って一枚いくらくらいかしら」息子の庄助が父の明治がトラックの砂利をかけられて怪我をしたと騒ぐ。砂利がテレビに当たらなくてよかったね、と喜ぶ庄助。

「江分利は昭和二十四年に結婚した。その頃小さな出版社に勤めていた江分利の給料が八千円、銀座の洋裁店の縫子だった夏子の給料が四千円。ふたり合わせればかつかつに暮らせるだろう。これでは結婚するより仕方ないではないか。七千円で熱海に新婚旅行に行ったが、熱海で江分利の越中ふんどしが盗まれた。新婚の縁起物ということで盗まれたのだろうが、こんな妙な縁起物は聞いたことがない」

「文京区の貸間の四畳半が江分利の新所帯である。昭和二十四年は松川事件の年である。江分利はため息をついたり、独り言を言うようになった。飲めば誰かれなく絡んだ。中年の裕福そうな女性を見ると腹を立てた。夏子をああいう女性にすることができるのか。江分利はまったく自信がなかった。江分利と夏子はよく喧嘩した。新婚六か月で江分利はこの女とどうやって別れようかと考えたが、次の日には仲良く散歩した」

「昭和二十五年十月、長男庄助が生まれた。母のみよにお父さんになったのよと江分利は言われた。庄助が八か月になった時、初めて銀座のレストランに入った」庄助にマカロニを食べさす江分利。(俺はこいつを食わさなきゃなれらないんだ。俺は自殺なんか考えちゃいけないんだ)「昭和二十六年の秋、夏子が奇妙な発作を起こした。病名テタニン。鶏に多い病気だった。その後半年間、こういう発作が週に一度起こった。庄助は小児喘息になった。それから十年間、よいというものは何でもやったが、庄助の喘息は治らなかった」

「江分利は口笛が吹けない。靴ひもがうまく結べない。音痴である。鎌倉時代と室町時代がどっちが先がわからない。富山と島根が隣り合わせだと思っている。サントリーの宣伝部員の癖に写真を一度も撮ったことがない。いつ聞いてもテープレコーダーの操作がわからない。これで宣伝部なんて派手な商売が勤まるのかねえ」

「勤まらないけど勤めているんだ。勤められるのは組合制度のお蔭だと思う。しかし江分利はなんとかやっていかなければならないのである。江分利が発作の夏子と喘息の庄助をかかえて生きて行けば、これは快挙ではないか。才能がある人間が生きるなんて大したことじゃないんだよ。宮本武蔵なんてちっとも偉くねえ。本当に偉いのは一生懸命生きてる奴だよ。江分利みたいな奴だよ」

江分利の書いた原稿を読む夏子。「これ、小説なの」「さあ」「随筆かしら」「さあ」「身辺小説ね」「さあ」「これで原稿料もらえるの」「さあ」「ねえ。題名なんていうの」江分利の書いた「江分利満氏の優雅な生活」は雑誌に掲載され、ちょっとした話題になる。「江分利さん、ステキだわ」「あのおっさん、酔っぱらってクダマクだけが取り柄だと思ってたよ」「そういえば、これは酔っぱらってクダマイているような小説だな」変なところがいいんですよ、と江分利に言う佐久間。「これからもどんどん書いてください」最初はもう書けないという江分利であったが、酒を飲むにつれ、絶対に書くという。「傑作をモノにするぞ」

「昭和三十四年十二月三十一日、江分利の母が死んだ。父はみわ、と叫んだ。オーバーだなと思ったが、長年寄り添った妻が死んだらこうなるのだろうか。もしこれが夏子と江分利だったら、これほどの演技ができるだろうか。江分利はみんなから冷たい男だと言われている。この時江分利の家は父の残した借金がたくさんあった。江分利の父は明治三十八年に生まれた。大学を卒業して京都の島津製作所に就職したが、大正十三年に独立して機械製作所をおこし、母と結婚。昭和三年には東京芝浦にかなりの工場を建てた」

「母は資産家の娘であり、父は立志伝中の人物であると言える。昭和五年、世界恐慌の余波を受けて、父は第一回目の派手な倒産をする。昭和六年九月、満州事変が勃発。昭和七年一月、上海事変が起こり、満州国成立。政治的発言をする軍人が力を持つようになった。昭和十年、父の友人の陸軍大佐が大きな戦争が始まるよ、と父に言った。父は石油会社に就職した。昭和十二年七月、日華事変勃発。父は東京支店長になった。戦争が江分利家を救ったのだ」

「昭和十六年十二月、大東亜戦争。父は軍需工場を経営し、ますます儲けて、軽井沢に別荘を建てた。つまり戦争成金であった。昭和十九年十一月、初めての東京空襲があった。江分利家の家作と工場がすっかり焼けたのは、昭和二十年五月のことであった。戦後の父はまるで人が変わったように毎日を花札と麻雀賭博で過ごす。かと思うと、私立大学の経営に乗り出す。父が債権者に追われる日常がまたやってくる。しかし父は昭和二十五年には社長になるのである。しかしその会社もすぐ潰した。朝鮮動乱の時が父の絶頂であった。父は会社を興し、潰し、次第に衰えた。そして最悪の状態で決定的にダメになった時、母の死が訪れたのであった」

「正月の三日まで火葬場が休みのため、元旦から三日まで連日通夜みたいになってしまった。江分利と妻はクタクタになっているのに、父は夜に酔っぱらって帰ってきた。告別式の翌日の朝、母の鏡台から遺書が出てきた。江分利はその遺書を読んだ」『もしも私の方がお父さんより先に死んだら、あのわがままなお父さんを残して死ぬことになり、申し訳なく思います。夏子さんは丈夫になったようだけど、庄助の喘息は治してあげてください。葬式はなるべく簡単に、駅の裏の玉川葬儀社で並にしてください。お通夜の時の食事は寿司昌の海苔玉がいいと思います』

「江分利が泣いたのはその夜、自分だけお茶漬けを食べている時であった。突然江分利の怒りと悲しみが爆発した。母の死んだことはちっとも悲しくない。母が遺書を書いた心情が悲しいのだ。母は父に絶望していたのだ。人生の負けを覚悟した母が哀れなのだ」号泣する江分利を怪訝そうに見る庄助。「江分利は三十三歳。重たいものが肩にのしかかってくる。夏子と庄助はなんとかなる。この父をどうする。この借金をどうする。とても払えない。おふくろは小さく貧乏したいと言っていた。それがもうできないじゃないか」

「二階にはスターアンドストライド紙のピートが下宿していた」『江分利さん元気になりましたか』『ああ、ありがとう。サンキュー』「江分利はこれからの人生に何ができるだろうか、夏子や庄助を幸せにできるのか、この外人に聞いてみようと思った」『俺はまだ三十を過ぎたばかりだ。だからまだ何かができる』『イエス、イエス』『こいつ、わかるのか』

「週に一回、糖尿病の検査に父は病院に行く。いい時もあったんだよ、あんた。江分利は父を悪人だとは思っていない。戦争に関しても父は悪人ではない。明治生まれの実業家で戦争の恩恵を蒙らなかった人はいないだろう。だけどね、しかたがないんだよ、おとっつぁん。あんたの男としての生命は戦後何年目かで終わってしまったんだよ」

江分利の書いた「江分利満氏の優雅な生活」が直木賞候補となる。直木賞ってノーベル章みたいなものなの、と夏子に聞く庄助。「そんな偉いものじゃないけれど、なかなかもらえないご褒美だって」「パパは小説家になるの」「さあ、どうでしょうね」「パパが小説家になったら毎日家にいるの」「どうだか」「お酒なんかあんまり飲まなくなる」「さあ、どうだか。もっと飲むようになるかもしれないわ」

江分利は見事に直木賞を受賞する。しかし江分利は相変わらず酒を飲んでは、運動会や焼きそばやカルピスや戦争や早慶戦の話をクダクダして、一緒に飲む相手をうんざりさせる。会社では若手社員がコーラスをし、バレーボールをし、ゴルフの練習をし、バトミントンをし、ゴーゴーダンスを踊る。ぼやく江分利。「随分いろんなことがあったけど、もうあんな馬鹿馬鹿しいことは起こらないだろう。ああいう時代は終わったんだ」