SALT PEANUTS(後)
話し合う山岡たち。「レコード演奏が主のジャズ喫茶なんて時代遅れなんだよね」「これだけステレオ装置が普及しちゃうとね。わざわざ喫茶店に聞きに行く必要はないもの」「しかし時の流れに逆らえないと片づけるのも悔しいな」「店を閉めたら、オヤジ、がっくり老け込むだろうな。あの店があのオヤジの人生だったから」「何かいい考えはないものかしら」
「あの店に通ったのは僕たちだけじゃないだろう。僕の友人だけでもかなりの数になるもの。そういう連中に働きかけるしかないんじゃないかな」「うちの社会面でも取り上げてもらったら」「そうよ。かなり反響があると思うわ。昔のお客さんでもソルトピーナッツが潰れかけているって知らない人が多いでしょう。新聞で知ったら、何とかしようと思う人がきっと大勢出てくるわ」
山岡に聞く社会部部長の川杉。「ジャズ喫茶が持つ社会的意義が何なのかね」「え」「社会的意義のないものを記事にはできない。そんなことをしたら、潰れそうな店が出来るたびに記事を書かなきゃならなくなる」「……」「新聞は天下の公器なんだぞ。私的な目的のため利用しようなんて、とんでもないことだ」
がっかりする山岡に君は食い物に詳しいそうだなと聞く川杉。「よし、取引だ。民自党の長老の長船氏が亡くなる前、我が社に日記を預けた。この日記を発表したら大センセーションを巻き起こすだろう。しかし日記を発表するにあたり、長船氏は生前一つだけ条件をつけた。それは彼の親族の了解を得ることだ。親族は一人を除いて承諾してくれた」「その一人と言うのが大変なんですね」
「そうなんだ。長船氏の実弟なんだが、大変食べ物にうるさい人で世界中の最高の美味を食いつくしたと豪語している。そんな自分に旨いものを食べさせてくれたら、承諾してもいいと言うんだ」「わかりました。その人の説得に成功したら、ソルトピーナッツを記事にしてくれるんですね」「成功したら三段使って記事にしてやる」「五段はもらわないと」「足元を見おって。よし、五段やろう」
長船弟に山岡と栗田を紹介する川杉。山岡の紹介する美食は全部食ったと言い放つ長船弟。「君たちにわしの昼飯を見えてやる」「えっ、煎った大豆、干した小イワシ、昆布の細切り、松の身、クルミ、スルメの細きり。みんな自然のままのものだわ」「そうとも、こういう物を食べているから、私は86歳になっても歯も胃も丈夫だ。何十年間も美食を重ねて、ついに行き着いたのがこれだ。真の美味とは、こうした素朴で自然のままの物の中にこそあるのさ」「なるほど」
「さあ、君たちも食ってみたまえ。一切のまがい物のない本物の味だ」「山岡さん、ピーナッツがあるわ」「あ」「旨いぞ。ちょっとバターに風味をつけてあるが、これも体にいいんだ」「あれこれ美食を重ねてきたと言われましたが、こんなピーナッツを旨いと言うようじゃ、その話を眉唾ものだ」「なんだと」「第一、このピーナッツは体に悪い。こんなもの食うと、これ以上の長生きは無理だ。これより旨いピーナッツを食べたくありませんか」「ぬう」
ソルトピーナッツに行き、喜多の煎ったピーナッツを食べて、こんな美味しいピーナッツは初めてだと感激する長船弟。「川杉君。兄の日記をとっとと出版したまえ」「やった」「部長。うまくいきましたね」「何を隠そう、私だってこの店に来たことがあるのさ」「え」「私だっておの店に愛着はある。なおのこと紙面に載せるのは私情の故みたいで、ためらわれた。だが、こうなったら話は別だ。私が自分で書く。ソルトピーナッツで育った人間の心に訴える一世一代の名文を書いてみせる」
一か月後、ソルトピーナッツに行く山岡と栗田と三谷と花村。「オヤジさん、元気そうだね」「山岡さん、三谷さん。何とお礼を言ったらいいか」「この間、もらったレコード、店を続けるなら必要だろ、返すよ」「そのレコード、最近のジャズ人気で復刻盤が出てね。新しく買ったよ」「えっ、復刻盤が出たの。じゃあ、前ほどの有難みがないね。ガッカリ」「あ、ソルトピーナッツがかかってる」「うむ。名曲だ」