作:雁屋哲 画:花咲アキラ「美味しんぼ(44)」 | ロロモ文庫

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春のいぶき

ふうんと呟く谷村。「やはり野菜は京都かね」「関東は火山灰台地ですからね。土の質の差が決定的に影響するんですよ。京都の人間は関東に来ると、野菜のまずさに泣くそうです」「そうか」「それで、京都のお野菜を取材に行きたいんです」「でも、こんな冬の最中じゃ」「そこがいいんです。この冬の最中、それでも美味しい野菜があるかどうかを見てきたい」「わかった」

東京駅に行く山岡と栗田。「まず錦の市場に行って、それからカブと大根と京菜の栽培農家に見学。途中で割烹料理のお店で京料理の野菜の使い方と研究してと」「やれやれ、日帰り出張とは厳しいなあ」

そこに結婚式直前で取りやめになって社内の同情を買っている日川が現れ、声を掛ける栗田。「おはようございます。お出かけですか」「え、ええ。ちょっと京都まで」「あら、私たちも京都に取材に行くんです。ご一緒しましょう」「楽しそうね。京都の野菜のこと、取材に行くなんて」「でも日帰りだからあわただしいの。日川さんは京都に何泊かするんでしょう」「え、ええ。そのつもりよ」

トイレに行くために席に立つ日川。そのスキに日川のカバンを開ける山岡。「何するの。そんな泥棒みたいなこと」「遺書だ」「え」「やっぱりな。さっき日川さんがカバンから切符を出した時、封筒が見えたんだよ」「日川さん、京都に行くのは自殺」「しっ、戻って来る」「どうしましょう。ねえ、山岡さん」「普通にしていてくれ。俺、ちょっと京都の知り合いのところに電話してくる」

京都駅で降りる三人。「日川さん、食事の予定は立てていないでしょう」「え、ええ」「付き合ってください。いい所があるんだ。食事が済んだら、日川さんの宿まで送ります」

雪深い山の中にある料亭「美山亭」に栗田と日川を連れて行く山岡。「ちょっと休んだら、ご主人、山に」「ええ、ご案内します」「え、山へ?」「この寒いのに」

この辺やなと言い、雪を掘り始める主人。「何かあるの?こんな深い雪の下に」「あればいいんだけど」「まあ、心配せんと。ほら、そこや」「あった、あった」「えっ、何も見えないわ」「これだよ」「あら、茶褐色の丸いものが地面の表面に」「何なの?これ」

フキノトウだと言う山岡。「これが?全然フキノトウらしくないじゃない」「この丸いカサみたいなものは覆いなんだ。この中にフキノトウが隠れている」「ホントに。小さくて可愛いけれど、間違いなくフキノトウだわ」「こんなに深い雪の下にもうフキノトウが」

「今は真冬だ。草は枯れ、昆虫は死に、全ての生命は活動を停止しているかに見える。一見すると死の季節だよ。だが雪の下の地面の中ではもう春が始まっている。雪が溶けたらすぐに飛び出そうと、こんなちっぽけなフキノトウが健気に生命の炎を燃やして、じっと待っているんだ」「何て鮮やかな緑色なの」「キレイね」

小川に三人を連れて行く主人。「川にはこんなふうに流れの淀んだ淵がところどころにあるんですわ。水の表面に落ち葉が一杯浮かんでますやろ。この落ち葉をどけてやると」「魚がいる。それも沢山」「じっと動かないわ」「冬の間、ずっとここに我慢強くじっとしてるんですわ」「雪に覆われたこの荒涼とした光景の中にいると、身も心も凍えてしまいそうだけど、この小さな魚たちの強さはどうだ。この魚たちの目には、光に満ちた春の景色が映っているんだろうな」

料亭に戻り、料理を楽しむ三人。「ギンナンのホウ葉焼きです。ホウの葉もギンナンもこの山で採れたもんで、味噌は自家製です」「ギンナンの香りと味噌の焼ける香ばしさが不思議に調和するね」「野菜の炊き合わせです。みんなこのあたりで採れたもんです」「野菜の一つ一つが香りが高くて、味が深くて広がりがある。いい取材になったな」

山岡と栗田に感謝する日川。「私を元気づけるためにここに連れてきてくれたのね。深い雪の下で春を待ち構えているあの瑞々しいフキノトウ。そして冷たい川の淵に潜んで春を待っているあの可愛い魚たち。それに比べたら、私、あまりに弱虫で恥ずかしい。春を思う力が私にはなかったのよ。白状するわ、私が京都に来たのは」「日川さん。君が京都に来たのは、フキノトウと魚たちに会うためだよ」

「そうよ。フキノトウと魚たちに会えて、私は」「フキノトウの田楽と、川魚の煮物でございます」「きゃあ、あのフキノトウと魚たち」「左様です。あれから、うちの若いもんが取ってきたんです」「ひどいわ。あんなに可愛いフキノトウと健気な魚たちを」

日川を諭す山岡。「今食べた野菜もこのフキノトウも同じ植物。この魚たちもあなたたちがいつも食べている魚も同じ魚類。生命のあるものに変わりはない。人間は生命のある物を食べなければ自分の生命を維持できない罪深い存在なんです」「……」

「可愛いフキノトウや寒さに耐えていた魚たちを食べるのは可哀想だと言うのは、ただの感傷です。自分自身が罪深い存在であることを忘れた欺瞞です。そんな感傷に捉われているのは、男に受けた傷から回復していない証拠です。もっと強くなりなさい。感傷なんか捨てて、今度はあなたが男を食ってやるくらいに強くならなくては」

意を決してフキノトウと魚を口にする日川。「ああ。清冽としか言いようのないこの味、この香り。心の中の淀みがキレイに流されていく。骨まで食べられるのね。こんな小魚なのに味が強靭だわ。山の生気を私に与えてくれるわ。美味しい。生きるって素晴らしいことね」