作:雁屋哲 画:花咲アキラ「美味しんぼ(31)」 | ロロモ文庫

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食卓の広がり

元東西新聞文化部に在籍していた信子は夫の真山をうまくいってないと花村たちに訴える。「真山さんは不動産会社の二代目社長で、財界でも一目置かれている人じゃない。どうして」「あれは新婚旅行から帰ってきた翌朝よ」

『おはようございます。ちょうどベーコンエッグが焼けたところですわ』『私はベーコンなか食べられない。目玉焼きも気持ち悪い。卵はスクランブルエッグにしてくれ』『ごめんなさい、知らなくて。焼けるまでチーズとハムはいかが?サラダも新鮮な野菜が手に入りましたから』『私はチーズもハムも食べられない。サラダもダメだ』『えっ』

『ちゃんと言っておかなかったのは悪かった。私が食べられるのはスクランブルエッグとトンカツとハンバーグステーキとカレーライスだけだ。朝のメニューはスクランブルエッグとパン、夜のメニューはトンカツとハンバーグとカレーを交代に出してくれ』『でも、それじゃ栄養が』『栄養はビタミンの錠剤で十分だ』

「いいじゃないの。夕食の支度は主婦にとって一番の重荷なのよ。こんな楽なことないわ」「でも想像してよ。広くて豪華な食堂で食べるのが、トンカツかハンバーグかカレーだけなんて。侘しすぎるのよ。心が寒々としてくるのよ。食べ物のことだけじゃないの。一事が万事そうなの。主人の心は冷え切ってるの。主人は私を愛してくれてるけど、冷え冷えとして、私はロボットは人形に愛されてるみたい。こんな結婚間違ってたわ」「やはり食べ物のことは」「山岡さんに」

真山邸に招かれる山岡たち。「山岡さん。真山さんの偏食を治す策はあるの」「別に。うん?あれはベーゴマか」「休みの日には、たった一人であんなオモチャに遊びふけるの。その姿もなんだか異常で」「ふうん。大星不動産の社長がねえ。ちょっと普通じゃないわね」

そこに現れた真山はベーゴマをする山岡にやりますかと声をかける。「だいぶお好きなようですね」「私は孤独な少年時代を過ごしたんです。社長になるための帝王教育を小学生になる前から叩き込まれて、友達と遊ぶことも許されなかった。だから大人になって、無性にこんなものが欲しくなりましてね」「何を賭けますか。俺は昭和20年代のメンコのコレクションを持っています」「それは凄い」「俺が勝ったら、晩飯を付き合ってください」「え。そんなことでいいんですか」「いいです」「ふふふ。メンコのコレクション、頂きですぞ」

しかし山岡に完敗する真山。「俺はガキの頃、腕白連中にもまれていた。だから、負ける気がしなかったんで、あんな賭けをしたんです」「そうですか。私もガキ大将たちと泥んこで遊びたかった」「では晩飯を付き合ってもらいます」「言い忘れましたが、私は」「わかってます。台所を借りて、トンカツを作ります」「カツか。それなら」「奥さんにも手伝ってもらいます」

「山岡さん、どうしてトンカツなの。それは真山さんの偏食は治らないわ」「ただのトンカツじゃない。カツ丼を作るのさ」「え。主人はカツ丼なんか食べないわ」「いいから任せて。まず豚肉だ。薩摩の黒豚のロース肉。黒豚は江戸時代に外国から入って来たパークシャー種の豚が元だ。特に薩摩の黒豚が旨いのは、サツマイモをたっぷり食べさせ、大麦や野菜や人間の残飯など自然な餌を与え、地面の上でのんびり遊ばせて育てるからだ」「へえ」

「山岡さん、トンカツ屋の肉はもっと厚いわよ」「それは日本が貧しくて、肉は厚い方が贅沢と思っていた頃の後遺症だよ。肉の旨味と衣の旨味が調和するのは5ミリ程度。それ以上肉が厚いとバランスが崩れる。そしてごま油で揚げる。高温でカラリと揚げれば、少しもしつこくない。香ばしさと味の良さだけが出る」

「ほう。皆さん、ご精が出ますな。私も見学させてもらうかな」「奥さん、揚げ終わったら、包丁を入れて、この鍋にカツオだしとミリンと醤油を合わせたツユを張って、玉ねぎの細切りを敷いて、その上にカツを乗せ、火にかける」「おい、何をする。折角のトンカツを」「玉ねぎとカツが動き出したら、その上にとき卵をかける」「やめろ。気持ちが悪い」「卵が固まりかけたところで、全部を丼のご飯の上に移す。あとは三つ葉を乗せて、カツ丼の出来上がりだ」「カツ丼だと?そんなもの私は食べないぞ」「真山さん、俺に賭けで負けたことを忘れないでください」「う」

過去を告白する真山。「私の父は強引極まるやり方で一代で大星不動産を築き上げた男です。事業の鬼である同時に愛人を作り、家に帰ってこない。母は宗教に凝って、ほとんど家にいない。私は父の命を受けた家庭教師と家政婦に育てられたんです。家庭教師は父の命令通り、私に帝王教育を施すだけの冷たい男、家政婦も母と同じ信者で人間らしさはこれっぽちもなかった。私は毎日一人で家政婦が機械的に作る料理を食べなければならなかったんです」

「家政婦の作ってくれたのが、卵焼き、トンカツ、カレーライス、ハンバーグだったわけですか」「そうです。そしてそれ以外に何も食べられない人間になったんです。本心はすごく飢えているんです。でも他の物は食べられない」「あなた」

「誰だってそんな少年時代を送れば偏食になる。偏食は心の病なんだ。その病気の原因は、愛情に満たされないところにあるんだ。真山さん。食べてください」「しかし、私には」「食べるんだ。あんた、死ぬまで、両親の呪縛の鎖から自分の心を解き放たないつもりですか。そんな冷え冷えした心のまま生きていくんですか」「……」

「そのカツ丼は冷淡な家政婦が機械的に作ったものじゃない。あんたも見たでしょう。奥さんが愛情をこめて作った物なんだ。真山さん、食べなさい。自分の心を解き放つには、これしかないんだ」

勇気を出して、カツを口の中に入れる真山。「あなた。出していいのよ。嫌いな物は無理に食べないで」「う、うまい」「あなた」「これはうまいよ」これが突破口だと言う山岡。「トンカツからカツ丼を第一歩に。あとはじっくりいろいろな食べ物を攻めていくのさ」「大丈夫よ。信子がいるもの。真山さんは本当は凄く飢えていたことも、それが何に飢えていたのかもよくわかったものね」