作:小池一夫 画:弘兼憲史「兎が走る(9)」 | ロロモ文庫

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コップ一杯の水では少なすぎる

レストランで生ビールを飲む磯と中年女。「生子はなでしこの房で私と一緒だった」「……」「ちゃんとした美容室もあるのよ。美容師もお客も受刑者だけどさ。生子はよくその美容室に行ってた。それでわかったの。シャバに恋人がいるんだなって。美容室に行くってことは不安だからなのよ。毎日お化粧した自分を見て、ああ、これならシャバに出ても彼に嫌われずにすむ。まだ彼を十分惹きつけることができると確かめて安心するわけなのよ」「……」

「私は生子を見て思ったの。シャバに物凄く好きな男がいても、その男とは不安定な関係にあって、出所してもその男のところへは行けないかもしれない。そんな焦りと不安が美容室へ無意識のうちに彼女を駆け込ませるんだなって。彼女に聞いてみたことあるのよ。手紙が来ても、その手紙を見ないでつっかえしていたから、そのことも含めてね。でも何も話してくれないの。暗い無口な性格でさ。彼女殺しでしょ。だから複雑な背景があるんだろうなあと思って、こっちも遠慮して無理に聞こうとしなかったのね」「その手紙は俺が出したんです。俺と彼女のこと聞いていただけますか」「場所を変えない?」

磯は女を自分のアパートに連れていく。「落ち着いて話の出来る場所ってほかに知らないし」「法律を勉強してるのね」「また、警察官に戻りたいんです」「またって、以前はそうだったの」「初めて生子と会ったのは」生子とのいきさつを女に話す磯。「なぜ生子は手紙を読んでくれないんだ。あなたのさっきの化粧する話、俺には痛いほどよくわかった。あいつは俺を愛している。俺も愛している。それでいいじゃないですか。あいつはいったい何を恐れているんですか。俺にどんな迷惑がかかると言うんですか」

入手すると二週間は独居房に入れられる、と言う女。「ひとりぼっちなの。その二週間の間に精密健康診断があり、IQ、クレペリン、ロールシャッハなどの各種テストを受けさせられ、身上調査書が作られるの。この二週間を一日一日積み重ねていくうちに、そして何かを決心するには十分すぎるほども時間であるわけなの。彼女はきっとこの時に決心したのね。あなたとは二度と会うまいし交流もしないって」「そ、そんな」

「それから雑居房に移されるの。そして工場に試験的に出され、規律訓練・施設適応の訓練を受けるのよ」「そんなことより、生子のことを」「いいから聞いて。そして作業職種の指定。これには一~四級まであって、最初は四級からやらされるの。部屋割りが決められるのもこの時よね。このころよね、あなたが面会したいと毎日のように通ってきたのは。私達の間でも噂になっていたのよ。なぜ会ってやらないと生子に聞きもしたわ」「そ、そしたら」「悲しそうに笑って決まって座をはずしたわ。何を聞いても答えてくれなかったのよ」「そうですか」

彼女の心に火がついた、と言う女。「え」「独居房で決心して雑居房に移り、ほっとしたところへあなたの面会希望。ぐらっと来て当たり前よ」「……」「午前六時半起床。六時四十分点検。七時十分出房。七時二十分から四十分まで朝食。七時五十分作業。九時半から四十五分まで休憩。九時四十五分から十一時五十分まで作業。十一時五十分から十二時半まで昼食。十二時半から午後二時半まで作業。休憩十五分。二時四十五分から四時半まで作業。四時五十分から五時二十分まで夕食。五時二十分還房。五時半から六時まで入浴。七時半までクラブ活動・テレビ観賞。九時就寝」「……」

「生子は考え込むことが次第に多くなったわ。何をしてもあなたのことが頭にあったと思うのよ。今度は手紙が舞い込み始めた。生子は読もうとはしなかった。読む必要がなかったのよね」「え」「読まなくても買いてあることがわかったのね。あなたの愛の深さを知り過ぎていたからだと思うの」「……」

「読めばつらい。読まなくてもつらい。だからその手紙を読まずに返すことで、必死に自分を保とうとしたんじゃないかしら。でも彼女、手紙が来るたびに嬉しそうだった。抱きしめるように受け取って、それから返していたから。手紙が来れば来るほど、愛の軌跡を積み重ねていたように思っていたんじゃないかしら。あなたとの」「……」

部屋は蒸し暑くなり、女は汗をかきはじめる。「ねえ、お風呂に行かない」二人は銭湯に行く。ガラスに写る二人を見て呟く女。「私達、何に見えるかしら。やっぱり夫婦かあ、私が姉さん女房の。ふふふ」銭湯から出て、アパートに戻り横になる二人。女は、来ないの、と磯を誘う。「別にいいじゃない、こうやって一緒に寝て何もしないのって不自然よ。あなただって不自由してるんじゃない」「……」「抱いて。お願い」磯に抱きつく女。「よ、よせ」「抱いて。寂しくておかしくなりそうなの。生子が出て来るまで、あなたは女っ気なしで耐えられるの。男でしょう。ソープだって行くでしょう。私には誰もいないの」

磯は女を振り切って立ち上がり、コップに水を入れて、女に差し出す。「俺達の渇きをいやすにコップ一杯の水では少なすぎるんだ」「……」「俺も渇ききっている。君も渇ききっている。水が飲みたい、お互いに。だが水はコップ一杯しかないんだ。半分ずつ飲んだところでとうてい渇きは癒せない。もし飲めば、もっともっと飲みたくなる。毎夜のようにお互いを求め合わずにいられなくなる。だが渇きは癒せない。ますます渇いていく。渇きは本能なんだ。愛ではない。そして愛のない結びつきには破局が来る」コップを畳に落す磯。涙する女。

翌朝、アパートを出る二人。「よく我慢したわね、私達」「駅まで送っていく」「いいの。かえって辛くなる。大丈夫、ちゃんと生きていける自信が出てきたの。あなた以上の人を見つけてやるから。ふふふふ。コップ一杯の水では少なすぎる。忘れないわ、この言葉。さよなら」