手塚治虫短編集(3) | ロロモ文庫

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夜の声

我堀商事の青年社長の我堀英一は、若さにものを言わせて、瞬く間に会社を資産30億の超一流にのし上げてしまった。英一は仕事の鬼だった。女の子ともつきあわず、これと言う道楽もなく。いや、英一にはたった一つ風変りな楽しみがあったのだ。

英一の楽しみとは何か。日曜日の朝早く、彼はボストンバッグにモノをつめて出ていくのだ。その行き先は誰も知らない。掘っ立て小屋に入った彼はボストンバッグからカツラやツケヒゲやボロ服を取り出して、それらを身に着けた。

彼の楽しみとは、一日、橋のたもとで乞食をやることだったのである。あまりにもバカげていると思う人があるかもしれない。だが彼にとってはそれが憩いだったのだ。毎日、彼は頭脳や体力をシャベルで削り取られるような辛さを味わっていた。大都会の弱肉強食のビジネスの世界は彼の青春を突き刺すように侵していたのだ。女と遊んでも、旅行をしても、そこに仕事が追いかけてきた。

しかし、このなりをしていれば、誰も気付かず、干渉もしなかった。彼はポカッと青空を見上げて、心の中をカラッポにして人生を味わうことができたのだ。そこで座っていると、様々な人が通り過ぎる。それを見ていると、それこそありとあらゆる人間模様を感じるのだ。それが彼の勉強でもあった。

日曜の夜のとばりとともに彼は元の姿に戻る。そして月曜からまた社長として暮らすのだ。だが、その夜は違っていた。

「きゃああ、おじさん、助けてえ」「よし、このフロシキをかぶんな。四方の端を持ってくるまるんだ。ころがっていると包みに見える」「わかったわ」「よし、行っちまった。早く逃げなよ。反対側へさ」「……」「どうしたんだ。腰が抜けたのか。おらあ、もう行くぜ」

英一のあとをついていく娘。「オレのあとをついてきてもしょうがねや。オレはご覧の通り、乞食さ。なに?行くところがないって。おめえ、家出だな。東京はこわいとこだぞ。ははあ、もうひでえ目に遭ったんだな。ここまでついてきちゃ、しょうがねえ。まあ。入んな」

娘を小屋に入れる英一。「とにかく帰れ。くにで心配してるぞ。東京にいると悪い女になるぜ」「あたし、帰らない。死んだってイヤよ。ここにいさせて。お願い、なんでもするから」「冗談言うな。オレ、乞食だって言ってるのに」

英一は娘の目を見て、それが思いつめた光を持っているのを知った。「仕方がねえ。じゃ、この家を留守番してもらうか。だか出るなら、いつ出たっていいんだぜ。何せオレは六日間よそへ行って、日曜しか帰ってこねえから」

一週間たって、また英一が乞食姿で来てみると、娘は部屋の中を片付けて待っていた。娘はユリと言った。真面目で心の美しい娘だと言うことが段々英一にはわかってきた。「さあ今日の稼ぎだ。また来週帰る。それまでに出たけりゃ出てっていいよ」「行ってらっしゃい」

それから半年たった。「お帰りなさい」「なあ、ユリ。お前、勤めてみる気はねえか。拾った新聞で見たんだが、我堀商事ってところがOLを募集してるぜ。年齢学歴を問わず、だ。おめえにぴったりだ。受けてみねえか。いつまでもこんな小屋の留守番をしてることねえやな」「いいの。あたし、ここが好きなんだもん」

だが英一は無理にユリを励まして、入社試験を受けるように勧めた。「おじさん。試験にパスしたの。明日から会社なのよ」「よかったな、ユリ。今日はユリのためにお祝いだ」「あたし、おじさんが一番好き」「へへへ。とんでもねえ」

すぐにユリを社長秘書にする英一。「どう?この会社が好きかい」「はい」「私を見てどう思う?こわいかい?」「……」(ユリ。君が好きになってしまった。こうやって感情を殺して君と接しているのが苦しい)

「どうだ、土曜日だよ。今夜、映画でも付き合わないか。ユリ」「社長の御命令なら」「命令なんて固いこと言うなよ」車の中でユリにキスをする英一。「やめて」「ユリ。ボクは君をボクのものにしたいんだ」「ダメ。ダメです」

「どうした、ユリ」「あたし、昨夜、社長に結婚を申し込まれたのよ」「ほう。それでどうした」「ハハハハ。結婚なんてできるもんですか」「どうして」「あたしね、前科6犯なのよ」「え」「どう。あたしがくにへ帰りたくないわけ、わかったでしょう。おじさん。あたしは前科者だと言うことを全部忘れようと思って逃げてきたのよ。おじさん、あたしがイヤになったでしょう」「いいや」

「へえ、前科者をなんとも思わないの」「乞食にとっちゃ同じだね」「社長となんか結婚できないわ」「社長だって、そのことを知らないんだぜ。いい話だ。お前の過去を清算する意味でも、その話に乗った方がいい」「イヤよ。ホントはね、あたし、おじさんのお嫁さんになりたいのよ」「ええっ」「おじさん、好きよ」「オレは乞食だぜ、ユリちゃん。オレなんかより社長の方が、あんた幸せになれる。わかったな」「バカ、バカ。おじさんのバカ」

「社長がいよいよ結婚されるそうだ」「ユリちゃんはシンデレラだなあ」「あの子だもの。きっといい奥さんになるよ」「羨ましいわ」ユリに明日から今いるところを引き払っておいでと言う英一。「いいマンションを借りといた。そこに式の日まで住むんだよ」

(オレもいよいよ今週か来週で乞食稼業ともおさらばだな。乞食よりもっといいものがオレに幸せをくれるからな)「おじさん。今日マンションに引っ越しなのよ。お別れよ」「いやあ、めでたいなあ」

一か月のち、式は盛大に行われて、ユリは我堀英一の妻となった。

「乞食だって?乞食のどこがいいんだ。どうしてオレより乞食の話ばかりするんだ」「あたし、乞食が好きなのよ。こんな堅苦しいお屋敷なんかより」「オレが乞食になったらどうだ?オレを愛してくれるか」「あなたは乞食になったって同じだわ。あの人とあなたとは違うわ」「あの人?その乞食のことが。それがいいと言うのか。いいだろう。どうせお前はムショ」「え、あたしの身の上を知ってるの?そうね。きっと探偵か何かに調べさせたのね。そうよ。あたしは前科者よ」

二人に冷たい空気が流れた。それはもう消しようのない壁だった。結婚後わずかで、幸福は逃げてしまったのだ。

「ユリ、泥棒の真似かね」「あたし、金庫からありったけのお金を出すわ。そして、あの乞食のおじさんと外国へ逃げるわ。ごめんなさい、あなた。そして誰にも何も言われないところで一生暮らすの」「バカ。乞食はこのオレなんだ」「ウソ。ウソよ」「行くな。行かさんぞ」「イヤよ」ピストルで英一を撃つユリ。「バカなことをしたな」「ごめんなさい。さようなら。あたしどうせ悪い女よ」

虫の息で二枚のメモを書く英一。<ユリ。お前が好きだった。だからこそ、お前を幸せにしたかった。オレは旅に出る。もう二度と帰らない。ユリ、あの暮らしは楽しかったね。お前のことは忘れないよ。さようなら。乞食のおじさんより><守衛へ。家内を見つけたら、これを渡してほしい。くれぐれも私が書いたことは言うな。よろしく頼む>

事切れる英一。「おじさん」と叫びながら小屋に向かうユリ。