3年前の夏旅を綴っています。ドイツ→ルクセンブルグ→スイス→リヒテンシュタイン→フランス→モナコ→スペイン→アンドラ→チュニジア→エジプト→ウガンダ→ブルンジ→ルワンダがこの旅の最終国です。
 

 

この旅、最後の国はルワンダです。

 

 
ルワンダの首都キガリに着いて驚きました。中心部はわりと都会なのですよ。
 

 

そして、アフリカ大陸の国ではかなり珍しいのですが、キガリは道にゴミが落ちていないのです。これ、ホント珍しいです。アフリカ各国へ行かれた方は見慣れた風景かと思いますが、アフリカの国々は、道にゴミが落ちてないなんてことはほとんどありません。

 

 

 

 

 

 

ルワンダは、ビニール袋の使用を自然環境保護の観点から厳しく禁止しており、入国時にビニール袋を持っていないか確認されたほどですよ。

 
 
 
 
 
 
そしてルワンダといえばジェノサイド。これを置いては語れません。つい27年前に起こった、近年稀に見る最悪の民族紛争です。ここはジェノサイド博物館。
 
 
米軍、豪軍が合同演習でもしてるのですかね。私の訪ねたときには、ルワンダ軍も含めて3カ国の軍人が大勢、見学に来てましたよ。
 
 
ご存知ない方もいらっしゃるかと思いますので、この1994年に起こったジェノサイド事件を説明しますと、ルワンダには元々ツチ族とフツ族という2つの民族がおり、この両者に明確な人種的相違はなく仲良く暮らしていたのですよね。
 
 
 
 
 
 
※ここより博物館内の少々過激な写真が出てきます。
 
 
 
 
 
しかしベルギー植民地時代、ベルギーは両者を異なる民族として完全に分断し、ツチ族を優秀な民族と重用するなどして両族の対立を煽り、自分たちへの不満や批判をかわす手段にうまく使ってきました。
 

 
そしてルアンダ紛争が勃発した際、フツ族過激派の中で、「ツチ族がフツを奴隷にしようとしている」という根拠のない主張が出回り、ツチ族とフツ族穏健派に対する虐殺行為が始まります。
 
 
これによりルワンダでは、たかだか100日の間に100万人近くが惨殺されました。
 
 
ルワンダ内民族紛争ではありますが、諸悪の根源はベルギー。つい2年ほど前に、やっとベルギーはこの件に関し公式に謝罪しています。今年に入り、フランス政府も虐殺を進めた政権を支援したとして、責任を認めました。
 
 
ルワンダに限らず、民族紛争というのは未だに世界中で火種を抱えていますが、一旦火が付くと人間は歯止めが効かなくなるものなのでしょうかね。
 
 
「殺らなければ殺られる」
 
 
その思い込みと日頃の不満が、大量殺戮を扇動したように私には映りました。とにかく、老若男女子供問わず、片っ端からという残忍さです。
 
 

人間はある日、急に隣近所の仲良かった知人を殺しえる生き物なのですね。プライドが凝り固まって自分をコントロールできなくなる、しかも第三者の煽りに乗ってしまう。また、貧困がそれを助長してしまうものだとも思いました。

 

 
日本は他国の植民地になったことのない数少ない国ですが、もしルワンダと同じように植民地化されていたとして、日本人だったらどうしただろうか。
 
 
ルワンダ大虐殺に関する映画はかなりあります。「ホテル・ルワンダ」や「ルワンダの涙」「愛の叫び」「ルワンダ流血の4月」など、もしご興味ありましたら観てみてください。
 
 

 

 

 

 

 

ジェノサイド後、ルワンダは急速に復興し、ICT立国となるなど「アフリカの奇跡」とまで呼ばれました。

 

 

ある面では先進国並みの政策を徹底していますが、物凄く進んでいると書かれてる記事を見ると少し違和感。
 
 
 
国民のほとんどが、ついていけてない印象です。特にiCTに関しては。
 
 
 
 
 
 
ジェノサイド博物館から戻る道すがら、ちょっと考え事をしながら歩いていたところ、一人の男性が声をかけてきました。

 

 

「どこへ行くの?」

 

 

 

 

 

 

散歩しているだけだと応えると、

 

 

 

 

 


「一緒に歩いてもいいか」

 

 

 

 

 


というので、

 

 

 

 

 


「もちろん」

 

 

 

 

 

 

街の中心へ向かい山を登りながら、二人で歩き始めました。

 

 

 

彼は、お隣ブルンジからの難民で、しばらく国へは帰っていないとのこと。

 

 
 

 

私は、「昨日、ブジュンブラを観光する予定だったのだけど、飛行機が遅れて街まで出れなかった」「ブルンジはどんなところなの?」

 

 

 

 

 

 

と聞くと、

 

 

 

 

 

 

「最高に貧乏だ」「この辺りでは一番ひどい」「アフリカの中でも最貧国に近い」「内戦で住めなくなった」「僕は、今の独裁が変わらない限り、二度とブルンジには戻れないだろう。」

 

 

 

と。

 

 

 

 

 

 

「ええ?内戦?」

 

 

 

 

 

 

ルワンダジェノサイドの凄まじさの影に隠れて目立ちませんでしたが、実は民族間紛争はブルンジにも飛び火しており、ルワンダが収まった後もブルンジ内のフツとツチで抗争が繰り返されていたようなのです。

 

 

 

 

 

 

「クーデターも起きてる」「危なくて住めない」「僕は家族全員、爺ちゃんも婆ちゃんも一緒に大勢でルワンダに難民としてきた」「歩いて来たんだ」「荷物もあるし、爺ちゃんは足が悪くてすごく大変だったんだ。」

 

 
 

そして、「来た当初はろくな家に住めなくて」「ちょっとした言語の違いなどもあって言葉も通じにくく」「今はないけど来た当初は難民に対する差別もあり」「母はいつもブルンジに帰りたいと泣いていた」

 
 

「弟たちはまだ小さかった」が「食べるものもなく」「父は一日中働いても一日2ドルしか稼げなかった」

 

 

 

 

 

 

「僕も、学校へ行かずに働いたよ」

 

 

 

 

 

 

英語の堪能なカレ。勉強したんだろな。色々話しをしながら小一時間ほど歩き、「会えて嬉しかったよ」「仕事に戻る!またね!」

 

 

 

 

 

 

まだ20そこそこと思われる彼の背中を見送りながら思いました。上述したように、ベルギーの姑息な人種分断差別さえなければ、彼もこれほど翻弄されず憂いもなく、慣れない土地で生活する必要もなく、貧乏でもブルンジで平和に暮らしていたのかも知れない。

 

 

先ほど調べたところ、2020年5月に大統領が変わったようですが、前大統領の指名で当選しているところを見ると、独裁は変わらないのか?

 

 

 

 

 

 

 

独裁が悪いわけでは決してないのですが、資本主義下で生きている者からすると、どうしても何か違うと感じてしまう。所詮人間ですのに、神にでもなったつもりか?と目を疑うようなのもいますからね。

 

 

 

 

 

 

彼と彼の家族は果たしてブルンジへ戻っただろうか。。

 

 

 

 

 

 

そういえば、私の泊まっているホテルのオーナー。朝食へ行くたびに話しかけに来てくれて色々聞いたのですけどね。

 

 

彼は、内戦が勃発した際、しばらくキガリに留まって惨状を目の当たりにしていたのだそう。この世のものとは思えない光景だったらしい。そして、いよいよ危険が差し迫ってきたとき、難民としてスイスへ渡ったのですって。

 

 

 

 

 

そこで、たまたま小さなブティックホテルの仕事に就けて、その隅々、それこそリネンの変え方から経営ノウハウまで学んだらしく、内戦が終わってルワンダに帰国し、このホテルにスイスの名前を配して開業したのだそう。

 

 

 

 

 

 

「スイスで僕を雇ってくれた主には本当に感謝している。」「僕はあそこで人生の多くを学ぶことができたんだ。」「僕はその恩返しのために、ここに宿泊してくれるゲストには、ここ(キガリ)での生活を印象的な思い出の一つにしてもらいたいと思ってる」

 

 

 

 

 

 

信じ難いツライ現実を目の当たりにした人というのは、どん底を経験して這い上がってきておられるので、強さと優しさを深く兼ね備えていらっしゃいますよね。

 

 

 

 

 

 

昨日も書きましたが、ウガンダ人はじめ、ルワンダブルンジなど、ビクトリア湖周辺一帯の人々に、礎の部分が何か温かく感じるのは、何かそういった苦しい過去の経験から人間味を一層強くしているのかなと思っています。

 

 

 

 

 

 

以前訪ねたサラエボ でも同じような印象を受けましたかね。。

 

 

 

ところでここに滞在中、私はキガリでも高級に相当するマリオットにランチしに行ったのですよね。そこでスゴイ光景を見ました。

 

 

 

 

 

 

キガリのマリオットは谷を見下ろす山上にあり、かなりの広さを誇っています。エントランスの先には一面のオープンカフェレストラン。その中央にテーブルを繋げて30名くらいが大きく陣取っていたのです。豪華な食事にワイングラスを傾ける欧米人。アテンダントが付きっきりです。

 

 

 

 

 

 

これから何かのイベントでもあるのかと思い、シートへ案内してもらうときに、「あの人達はなんですか?」と何の気無しに聞いたのです。

 

 

 

 

 

 

すると「彼らはユニセフだ」と言ったのです。「ユニセフ?ユニセフが昼間からパーティ?」と聞くと、「Yeah,毎日だ。彼らはクレイジーだから。僕が言える立場ではないけど。」

 

 

 

 

 

 

ホント、狂ってるわ奴ら。

 

 

 

 

 

 

「あなたでなくても、日本人の私から見てもクレイジーに見えるから気にしないで。」

 

 

 

 

 

 

私がそこでランチしている間、ずっと彼らは世界中からの寄付で楽しそうに宴会していました。これね。ここだけじゃないのですよ。私、貧国とされる国のアチコチで見ます。

 

 

 

 

 

 

日本人は良かれと思って寄付、若しくは税対で巨額を拠出しているのでしょうが、よーく実態を把握する必要あると思いますよ。そもそもマッチポンプだということを知ってください。

 

 

 

 

 

 

ここはキガリの中心にある、UBUMWEホテルのルーフトップバーです。

 

 
夕飯を食べに来ました。カルボ。
 
 
美しい夜景です。
 
 
つい数十年前に、ここで大虐殺が起きていたなど考えられない。
 
 
ここにずっと住んでいた30歳以上の人々は、皆それぞれの立場でジェノサイドを経験しています。
 
 
常に安全な位置にいる日本人の私が言うのもアレですが、ほんとこれからもアフリカの先進を担っていくくらいの意気込みで、進んで行かれることを強く願います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、3年前の夏旅はこれにて終了です。
 
 
 
 
 
 
前半と後半で雰囲気がガラリと変わりましたよね!私自身も世界観がガラリと変わり、色々と感情の揺れ動く良い旅でした。
 
 
 
 
 
 
旅の最初は、タックスヘイブンの浮世離れした煌びやかさとゴージャスな物質社会、大国の持つプライドと儚さを感じ、
 
 
 
 
 
 
久々のバルセロナでは、生ハム4年分くらい食べたかな。サグラダ・ファミリアも工事進んでいるようで何より。笑
この旅でヨーロッパすべての国をコンプリートできたのも妙な達成感ありましたかね。
 
 
 
 
 
 
北アフリカのイスラム社会では、欲とテロの闇に考えさせられるものがありました。
 
 
 
 
 
 
そして、歴史的に西欧に翻弄されたビクトリア湖周辺のウガンダやブルンジ、ここルワンダは、人々の懐の深さといいますか真の強さ優しさに触れることができ、本当に来れてよかったと思っています。
 
 
 
 
 
 
この旅は良き巡りだったと思っています。
 
 
 
 
 
 
今回も、長い旅路にお付き合い頂きましてありがとうございました!
 
 
 
 
 
 
次に載せる旅もまた長そうですが、良かったらまた遊びに来てくださいませ。
 
 
 
 
 
 
私は今日から4連休!それでは皆様、良い祭日を!