今日は、モンテネグロの首都ポドゴリツァから、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへバスで向かいます。18.5€です。
 
 
今回は、首都間のバスあり問題なし。到着するバスターミナルも把握しています。(と思ってたら大誤算)
 
 
 
 
 
スマホの調子がどんどん悪化し、充電すると100%表示なのに、使い始めるとすぐ10%に変わってしまう。
 
 
今回は長旅でしたので、少しでも荷物を減らそうと、PCもタブレットもモバイルバッテリーもない。これが後から良き出会いに繋がったりもする。

 
チケット購入し、このバスで向かいます。
 
 
道中、景色が素晴らしくてですね。
 
 
レンタカーすれば良かったと後悔しきりです。
 
 
素晴らしい景色が見えても、バスを停めることはできませんからね。
 
 
車だったら、あちこちで停車して写真を撮りまくってただろう。そして、目的地まで時間がかかり過ぎていただろう。笑
 
 
私が写真を撮っていると、カーテンを閉めて寝コケていた同乗の皆も、カーテンを開けて景色を眺め始めた。ほんと美しかったですよ。
 
 
さて、モンテネグロ側のボーダーに到着。
 
 
さよならモンテネグロ。さて、この橋を渡るとボスニア・ヘルツェゴビナです。
 
 
この橋、細くて一台ずつしか通れない。信号もなければ旗振り役もいないので、片方が入ってしまうと、もう片方が渡れない。しかも、少し前に出ていると次の車が追随してしまうので、バックができない。
 
 
そんなこんなで1時間以上立ち往生。やっと渡れたと思ったら、向こう側も長蛇の列でした。諦めて皆、外で話し込んでる。笑
ここ多分、常態化してるね。それを解消する手立てを打たないのが、途上国の悲しいところ。
 
 
さて、首都サラエボのバスターミナルに着きました。ここで、忘れられない出会いがありました。これは、昨年の12月17日にも書いていますが、この旅の途中に起こった出来事なので、写真を入れて文章を見直し再掲です。 
 

 

 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナに入りバスが到着したのは、私の想定した(地図に載っていた)場所とは違い、サラエボの中心地からだいぶ離れた郊外の団地郡の中でした。

 
 
 
 
 
ここが、国際線バスのターミナル?
 
 
 
 
 
私は一旦降りたものの、乗ってきたバスに再度乗り、「サラエボの中心部、旧市街まで行きたいのだけど、このバスは近くまで行きますか?」と聞いてしまうくらい見渡す限り団地しかなかった。
 
 
 
 
 
 
どんな国でも、到着して先ずすることは、その国の通貨をゲットすることですが、ここじゃ現地通貨を下ろせなそう。(ボスニアはユーロではなく、独自通貨を使っています)
 
 
 
 
 
 
国際バスが到着するのに、ATMも両替所も銀行もない。
 
 
 
 
 
そして、ホテルのあるサラエボ中心地の旧市街まで、かなり距離があるように思われ、しかし周囲にタクシーも見当たらない。そもそも人も歩いてない。そして同乗の乗客は、次々と迎えの車で去っていく。
 
 
 
 
 
乗ってきたバスの運転手が、「この方向に300m歩くと、ローカルバスの停留所がある。1番のバスに乗って市内まで行ける」と教えてくれました。
 
 
 
 
 
スーツケースを引いて歩いて行くと、確かにバス停はあるのだけど、そもそもバスに乗るための現地通貨がない。
 
 
 
 
 
 
そのバス停には、何人かの地元住民がバスを待っていました。どうにか現地通貨をゲットしたいのですが、話しかけても英語が通じない。そして、ここで待っててもバスには乗れない。
 
 
 
 
 
「ここから市街までどれくらい距離あるのだろう。」「歩けないこともないかも。」「途中でATMあるかも知れないし」と考えるも、雰囲気的に無謀な感が漂ってる。
 
 
 
 
 
そこへ、小さな子供ジプシーが数人やってきて私の周りを取り囲み、
 
 
 
 
 
「Money! Money!」
 
 
 
 
 
と手を差し出します。
 
 
 
 
 
こっちが恵んで欲しいわっ!笑
 
 
 
 
 
そうこうしてるうちに、向こうから1番のバスがやってきてしまいました。
 
 
 
 
 
地元の皆様はすぐさま乗り込んでいきました。私は最後に乗ってバスの運転手に、
 
 
 
 
 
「ボスニアの通貨を持ってないのですが、euro€で支払うことはできますか?」
 
 
 
 
 
とユーロコインを見せながら尋ねたら、
 
 
 
 
 
「No」
 
 
 
 
 
あっさり断られ、仕方なくバスを降りたところ、
 
 
 
 
 
「どうかしましたか?」
 
 
 
 
 
今、到着したばかりの杖をついた老齢の男性が、英語で話しかけてくれたのです。
 
 
 
 
 
「あなたのために、私にできることはありませんか」
 
 
 
 
 
そう聞いてくださる男性に、「私は今、モンテネグロからバスで着いたばかりで、ボスニア通貨がありません。」「旧市街までバスで行きたいのですが、この近くに両替所かATMはありますか。」
 
 
 
 
 
と聞いたのです。
 
 
 
 
 
するとその男性、胸に手を当てて、
 
 
 
 
 
「ようこそサラエボへ」





そして、





「あなたはこのバスにどうぞお乗りなさい」「あそこの席に座るといい」
 
 
 
 
 
と、運転手のすぐ後ろに空いていた席を指さし、私に乗車を促しました。
 
 
 
 
 
 
私が席に座るのを見届けると、彼はバスの運転手に何かを言いました。
 
 
 
 
 
 
どうやら、私の分のバス代を払ってくれたよう。
 
 
 
 
 
そして、ゆっくりとした足取りで私のそばまでやってきて、
 
 
 
 
 
「サラエボ旧市街は、このバスの終点駅です」「私は途中で降りますが、あなたは最後まで乗っていなさい」
 
 
 
 
 
そして、彼は私より少し後ろの方の空いてる席にゆっくり歩いて行き座りました。
 
 
 
 
 
私、もう泣きそうでした。
 
 
 
 
 
もとい、
 
 
 
 
 
泣いてた。ポロポロきてた。アゴから滴るほど。今、思い出してもウルウルしてくる。
 
 
 
 
 
 
大げさと思われるかもしれません。実際、バス代は日本円で80〜120円といったところだったでしょう。
 
 
 
 
 
 
でも、その80円がない。ネットが繋がらなくて自分がどこにいるのかも分からない。周りに何もないうえ意思疎通もままならない状況で、言葉が通じただけでもありがたかったのに、見ず知らずの私の分まで当たり前のように払ってくれた男性。本当に心底有り難かった。
 
 
 
 
 
 
席が離れているので、彼と話すことができませんが、私の中は「感謝」で埋め尽くされていて、この気持ちを何と表現して伝えたら良いのかと、そればかり考えてました。
 
 
 
 
 
持っていたユーロを渡そうかとも思ったのですが、もしかしたら失礼にあたるんじゃないか?好意を踏みにじることになるかもしれない。でも相応額は返したほうがいいのか?葛藤の末、ここは有り難く受け取っておこうという思いに至りました。
 
 
 
 
 
 
サラエボ中心部までは相当な距離があり、とても歩けなかった。
 
 
 
 
 
 
バスは、古い団地の横をしばらくの間、走り続けていました。
 
 
 
 
 
よく見ると、
 
 
 
 
 
 
「ん?」「何あれ?」
 
 
 
 
 
 
「何?あのエグレは?」
 
 
 
 
 
 
団地の側面や正面あちこちに、大小の穴や崩れ落ちている箇所が。
 
 
 
 
 
「え?これもしかして?」
 
 
 
 
 
古い団地の壁は、どれも弾痕だらけだったのです。分かりますか、右側の団地サイド。
 
 
これ、かなりマシな方で、酷いところなどは撃たれすぎてコンクリ色がむき出しでボコボコだったり、爆弾痕?コンクリがガッツリえぐれているところもあったのですよ。それでも洗濯物が干されてるので、人が住んでる。建て直しせず未だにその当時の凄惨さを遺しているのです。
 
 
 
 
 
ユーゴスラビア紛争に端を発し、1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は4年ほど続き、一般人を含む20万人もの人々が亡くなっています。動くものは子どもでも撃て。といわれた凄惨な内戦でしたよね。





この9月に「アイダよ、何処へ?」という映画が上映されますが、これもボスニア紛争を描いています。他にもこの戦争を題材にした映画は多くありますので興味のある方は観てみてください。
 
 
 
 
 
 
サラエボはオリンピック後に内戦に入り、一般の墓では間に合わず、競技場が戦没者の集団墓地になりました。
 
 
 
 
 
つい数か月前も(2021/6)、この戦争でジェノサイドを指揮したセルビア人の裁判をニュースで見ました。ある意味、未だリアルです。
 
 
 
 
 
住宅地も戦地になったと何かで読んだことがあったのですが、正にそれが目の前に。


 
 
 
 
すぐさまカメラを取り出して動画を撮りました。後ろを振り返ると、彼も外をゆっくり眺めています。
 
 
 

 
間もなくして、彼が私のところまで来て、先ほどと同じゆっくりした口調で、
 
 
 
 
 
「私はここで降ります」「良い旅を。サラエボを楽しんでください」
 
 
 
 
 
え?もう降りちゃうんですか?もしかして、ここに住んでらっしゃるのですか?この弾痕だらけの団地に住んでるの?
 
 
 
 
 
。。。
 
 
 
 
 
 
そうだ。考えていた感謝の気持を伝えないと。
 
 
 
 
 
 
と思いましたが言葉に詰まってしまい、ただ「本当にありがとうございました。感謝しています」としか言えませんでした。
 
 
 
 
 
 
彼は多分、ボスニア紛争の只中にいて、それを経験しただろう。これまでの旅を通じて感じているのは、リアルに戦争を経験して生き残り、辛い思いをされてきた人々は、とにかく親切だということ。
 
 
 
 
 
何か、とてつもない、計り知れない感情を乗り越え、あるいはまだその只中にいるのかも知れない。
 
 
 
 
 
秩序も常識も通じない理不尽な生死の狭間で、かろうじて生に転んだとき、人はどうやってその先を生きていくのだろう。もしかしたら、大切な人を失ったかも知れない。
 
 
 
 
 
先日の長崎の式でも、これまで何十年もずっと口を閉ざしておられた女性が、捻りだすような声で原爆投下当時の状況と心情を話されていましたね。
 
 
 
 
 
 
抱えきれない感情を胸に秘めて、どうやって、その地獄を自分自身の中で辻褄合わせて生きてきたのだろう。。
 
 
 
 
 
赤いTシャツの後ろに座っている人がそうなのですよ。団地の弾痕を動画で撮りながら、彼の姿もそのまま隠し撮りしました。忘れないようにと思い。お爺様、今でも元気でいらっしゃるだろうか。
 
 
 
旅先での出会いはほぼ一期一会ですので、残念ながら多分もう彼にも二度と会うことはないだろう。でも、こういった施しは心に沁みわたり一生忘れない。
 
 
 
 

名前も連絡先も知らないので、彼に直接恩返しはできないけど、せめて、どんな場面でも目の前で困っている人がいたら、すぐに助けられる人間でありたいと思うのですよね。