聖子との思い出をたどる | バイク馬鹿 ロックベーシスト 西本圭介

バイク馬鹿 ロックベーシスト 西本圭介

テクニカルベーシストとしてベース・マガジンでも紹介 / ディープ・パープルのグレン・ヒューズ達と共にヨーロッパ11カ国を周り、また巨匠ビリー・シーンと共にKoRnのドラマー[レイ・ルジアー]のリズム隊として登場。

昨日で、妻・聖子が亡くなって初七日を迎えました。
 

正直なところ、「初七日」という言葉も、今回の出来事がなければ深く意識することはなかったと思います。

 

先週の今頃、17時40分頃には、家族や親族とともに葬儀場で亡くなった聖子と対面していました。

それからまだ一週間しか経っていないのかと思う一方で、ずいぶん遠い昔のことのようにも感じています。
 

この一週間は、葬儀後の支払い関係や行政手続き、家の中の整理、パソコンやiPhoneの確認など、次から次へとやるべきことに追われる日々でした。

週末は献花に来てくださる方々への対応や、お預かりしたお花の整理に多くの時間を費やし、本当にたくさんの方々に支えていただきました。



 

SNSでは食事に出かけた様子なども載せているので、「少し元気になったのかな」と思われるかもしれません。

 

しかし実際には、朝から晩まで何かをしているうちに一日が終わり、疲れ果てて眠る毎日です。

 

これまで当たり前だと思っていた家事ひとつをとっても、聖子がいない現実を思い知らされます。

 

洗濯機の使い方に戸惑い、掃除に手間取り、昨夜は残り物で焼きそばを作ってみたものの、野菜の切り方すらよく分からず、見事に失敗しました(涙)

 

「聖子がいないと本当に何もできないな」と苦笑いするしかありませんでした。

 

そんな慌ただしい日々の中ですが、一週間が過ぎた今、少しだけ立ち止まって聖子のことを書いてみようと思います。

 

献花に来てくださった方々から、聖子との思い出をたくさん聞かせていただきました。

ここ数年は私が名古屋・神戸を経て東京で単身赴任をしていたこともあり、お客様や友人の皆さんのほうが、今の聖子について多くのエピソードを持っているような気がします。

 

葬儀や献花台に足を運んでくださった方々の数を見ても、私が知らなかった「店長としての聖子」「多くの人に愛されていた聖子」の存在を改めて知ることになりました。

 

けれど、その一方で、私だけが知っている聖子もいます。

 

まだ「3丁目のたこボール」の店長になるずっと前のこと。

誰も知らないわけではないけれど、少なくとも今のお客様たちが知らない時代の聖子です。

 

今日は、そんな頃の話を少し思い出してみたいと思います。

 

彼女と結婚した頃、私たちは福岡にいました。
福岡に私が卒業した大阪スクールオブミュージックの姉妹校を新規オープンするための立ち上げ要員でした。

 



大阪のバンド界隈で出会った聖子。

毎日バイト先にバイク(中型チョッパー)で乗り付けて裏口で待ち構えてプレゼント渡す攻撃をしていました。
当時は僕のことはそんなに好きなタイプというか人柄ではなかったみたいです。

僕には不似合いなくらいに素敵な女性ですから。
聖子に出会ったときに衝撃が走って「絶対結婚するならこの人だと」思いました。
絶対にこの人と結婚したい、絶対にするという運命を感じました。
 

今ならストーカーで訴えられているかもしれませんが、全力で自分をプレゼンして口説きました。
結果的に僕が仕事で福岡に転居するときに一緒に来てくれた。本当に感謝。
 

僕は26才、聖子は22才くらいかな。
写真はおそらく結婚した頃では無いかと思います。

聖子に年末に突然、「年末調整で税金が返ってくるから、籍を入れないともったいない」みたいな説得をされて結婚しました。
もちろん、そんな申し出でなくても僕からプロポーズする予定ではありましたがね...

 

福岡で第一子の長男 昌良(あきら)が誕生しました。
僕は当時はブラックという言葉がない時代で本当に一日14時間働き、月に2日休むとラッキーみたいな働き方をしていました。
だから結婚式をせずに籍だけを入れて、もちろん新婚旅行も無しでした。

そんな僕を不憫に思った当時の学生達が翌年に進級卒業制作展で結婚式を作ってくれました。



ウェディングプランナーコースの学生が僕たちを題材に結婚式を作り、ゴスペルの子達が歌ってくれたり、手作りで素敵な式でした。
本当に感謝いたします。

 

聖子がいたおかげで福岡での学校の仕事に打ち込めました。
そんなときに僕はケリーサイモンさんのという超絶ギタリストとの活動に気持ちを込めていました。

 


写真は福岡当時、僕がポール・ギルバート(MR BIG)のギタリストのソロコンサートをディレクションしたことがあって、その時の楽屋です。ドラマーはレーサー Xのボーカル、ジェフマーティンです。
ジェフはバイク好きなので今でもたまにバイク談義をSNSでする仲です。

福岡でも充実して仕事をしていましたが、今後は福岡ではなく、広島を拠点にして音楽活動を世界的にしたいと思っていました。
そこで聖子に福岡の学校をやめて広島に帰ってゼロから仕事を探すと告白しました。

聖子は「お父さんがやりたいことだったら応援するからやりなさい」、「収入が一時的にゼロになったとしてもお父さんならなんとかなる。」
そういう風に励ましてくれました。




福岡では第二子の将来(まさき)も誕生しました。

結果的に広島に拠点を移しました。
上司のサポートもあり福岡の姉妹校の名古屋の学校立ち上げに関わってほしいということで再雇用されて音楽活動と平行してようということで単身赴任の人生がスタートしました。

 



広島で拠点をすえてからは名古屋での単身赴任生活がスタートしました。
その頃から子育てについては言い方は悪いですが、丸投げ状態であったと思います。

結果的には僕の変な子育て論が介入せず聖子がしっかりしたおかげで子供たちが真っすぐに成長したのだと思います。



広島に帰って来てから長女の陽子(ようこ)も誕生しました。

聖子は本当に素敵な人です。

 

 

常に笑顔で子供たちにもエンターテイメントあふれる事をしてくれていました。

 



お誕生日などには盛大にイベントを作ってくれました。

子供たちの玩具も木工大工をして手作りで作りました。

その後の3丁目のたこボールで発揮されたイベント魂や遊びを全力でするという人を笑顔にする人柄は子育てのときからも発揮されていました。



まだこの当時の聖子はバイクには乗っていません。
彼女に車の免許を福岡で取らせて僕たちの初めての自家用車はトヨタ トレノでした。
そのトレノも色々なところにブツケて本当にボコボコにして、謝りながら屋外でDIYしてパテ埋めしていた彼女を懐かしく思い出します。

バイクも原付を渡しましたが、乗ろうとせずに自転車で坂の下のスーパーへ汗をかきながら降りていました。



写真と時系列はズレていますが、聖子が38才のころに突然バイクの免許を取りに行くと言い出しました。
子供たちが大きくなれば、僕に感化されてバイクを乗り出すだろうと、そうしたら自分がアドバイスとかできなくなる、そう思ったらしいです。

中免から取りに行きました。
おそらく中免も何度かすべってやっと合格だったと記憶しています。

落ちた日は大泣きして帰って来ていたのを思い出します。

そして不屈の精神で大型免許まで取りに行きました。
大型免許はそれこそ2~3回落ちたと思います。
そのたびに中央自動車学校のコースが見える土手のところに座って悔しそうに泣きながら、次を目指していた事を思い出します。

結果的に大型免許まで取得しハーレーにも乗れるようになりました。




私は元ハーレーディーラー勤めなので色々なハーレーに乗りましたが、このダイナは奥さんと共同所有した一台です。
ここで学校勤めじゃなかったっけ??となりますが、
名古屋の系列の音楽学校も6年で退職しました。

理由は大好きなハーレーに一度は関わる仕事がしたかったからです。
ハーレーへの転職は退職後に決まったことで、その時も収入ゼロになる覚悟で相談したが、「お父さんのやりたいよーにやりんちゃい」と背中を押してくれました。



3タコ常連さんもあまり知らないかもですが、ダイナを乗って走っていた時代もあります。



あんだけスクーターも乗りたがらなかった人がとてもアクティブになりましたね。
僕自身は聖子はおしとやかで、おとなしいという印象だったのですが、バイクに乗り出した頃から、元来持っていたイベント魂とか、人を笑顔にする、楽しむときは馬鹿になって楽しむというキャラが作られたように思います。


当時はクラブハーレーやガレージの特集本によく取材されていましたね。



後年には全くすることがなかったバイクのタンデムも当時は良くしていました。
バイカーミーティングに行ったりも良くしたな。



そんな奥さんがたこ焼きのケータリングカーをしたいと言い出しました。
というか、たこ焼きのケータリングカーは最終的に家族会議で決まったので、当初は店舗にしようとか、たこ焼きというのも最終的にそうなったという感じです。

もともとはアルバイトへ出ていました。
坂の下のスーパービックでパン屋さんのバイトをしてました。

しかし、子供たちが全員小学校になると、各自で下校してくる、その時にちゃんと「おかえりなさい」と声を掛けて対応したい、所謂鍵っ子にしたくないということで、家族会議をした結果、自宅で商売をするしかないという結論になり、子供たちも設計図を書いたりロゴデザインをしたり、ある時は街中のたこ焼きを買いまくって全員で試食して、ライバル調査をするということもやりました。

3丁目のたこボールは本当に子供たちとの協力によってできた店なのです。


https://ameblo.jp/poppy2010/theme5-10020351962.html

このリンク先に開業前からの時系列で聖子のブログが出てきます。
どの用に開業したかがよくわかります。
今後開業をしたいと思っている人にも参考になります。



開業当時は本当に閑古鳥が鳴くという表現がぴったりなくらいに静かな宮園で小鳥のさえずりが響くくらいに暇でした。

僕と聖子は二人で店頭に座り込んで町内ポスティングするかの〜という相談をしていました。
実際にそれをしたようにも記憶しています。

2010年頃は、現在のようにInstagram・TikTok中心ではなく、mixi、Twitter、Facebook(初期)、ブログが主役だった時代です。
スマートフォンは普及し始めたばかりで、多くの人はまだガラケーを使っていました。

そんな時代でしたが、僕は当時ハーレーディーラーのバルコムの本部でネットマーケティング部を立ち上げた頃だったので、それを活かしてSNSマーティングをしようと提案しました。

しかし聖子もまだSNS過渡期でしたから、疑心暗鬼だし、今ほど写真を投稿したりがスマートでない時代です。
ブログを書くのも億劫になったり、書きながら疲れて寝たりしていたのを思い出します。
それを根気よく、やるべきだということを伝えて、投稿しているうちにブログにファンがついたり、SNS経由でバイク乗りが集まるようになりました。

当時はバイク中古車も雑誌を見て調べる時代だったので、MJバイクという中古車情報誌がうちの店を取り上げてから、盛り上がったように思います。

そんな当時に僕はバイクと車関係の仕事バルコムを退職することにしました。
その時も「お父さんがやりたいことならやりんちゃい」と背中を押してくれました。
聖子は一貫して僕がやりたいという選択を否定することなく、「お父さんならできる」と言ってくれる人でした。

結果的にライブハウス オクトパスを開店し数年は経営と運営をしました。
ライブハウスの当初は本当に貧乏で僕も財布には数百円で飯を食うのも躊躇する生活でした。

なけなしの10万くらいを包んで「今月はこんだけじゃスマン」と平謝りしたときも常に前向きなアドバイスをくれていました。

当時「あげまん」って言葉がありましたが、聖子こそが「あげまん」の辞書に出てくるような人だと思いました。



3タコを始めた頃は聖子はバイクには全く詳しくありませんでしたが、後年は僕よりも車種の判別ができていました。
すごい努力をしてバイクを覚えていたのでしょう。


お客様とバイクとの関連などの記憶も凄いし、ツーリングルートやオススメの名店などは僕は「聖子、明日ツーリング行きたいけど、オススメの店とルート教えて」と聞くと、詳しくアドバイスをしてくれていました。
兵庫から広島くらいはマップみずに普通にバイクで下道で帰るような人でした。


写真は世界的なニューメタルバンドKORNのドラマー レイ・ルジアーがうちの家に泊まりに来たときです。
世界的なミュージシャンと秋吉台の観光に行ったりととても楽しんだ思い出があります。

3丁目のたこボールはその後、5年10年と歴史を重ねていき、開業16周年になりました。

聖子は本来ならば盛大に周年祭をしたかったと思います。
コロナ禍で大きなイベントをすることが自粛ムードになってしまったので、近年はやることがなかなか難しいと思うようになっていたのでしょう。

またお客様もどんどん増えていたこともあり、当初は観音の空港様やマリーナホップ様、宮島ビューマリーナ宮島様などで開催しましたが、今ならばどの規模でやったのだろうと考えることがあります。

彼女は無鉄砲なので、本当に自分がどれほどきついことになるかを想像せずに楽しいことを実行してしまう人です。

 

僕は彼女が企画したものを見て、パワーポイントで具体的に何が起きそうとか、どうやって告知するのかということを一緒に考えていました。

ある時はエクストリームバイクのタイヤ跡が借りた場所についてしまって、それを後日お詫びと消す作業に行ったりと、とても女性一人でなんとかなるような代物では無いことを臆せずやる人でした。

それも聖子を常にサポートしてくれていた人達、仲間のおかげだと思います。

 

聖子はバイク事故で去りましたが、彼女からみんなへの安全運転で楽しもーねというメッセージだと思っています。

僕は今回のことで、ことさらバイクを乗ることが危険な行為だという風には思わないし、バイクは楽しい乗り物だと聖子も今でも思っていると思います。

聖子は事故の前日に長女の陽子のフットサルの試合を応援しに兵庫県までバイクで行きました。
その帰路の事故だったわけですが、最後に娘を応援できてよかったねと声を掛けました。

 

聖子がいなくなって淋しいです。

 

もっと話したかった、相談に乗ってもらいたかった。
老後に二人で何かやるのか話したかった。

次男と一緒に事業を起こすこと、出資したいみたいなことを言っていたので、聖子がどんな新しいチャレンジをするか見たかった。

 

 

もう一回人生があるならまた聖子に出会って、一からストーリーをやり直して、子供たちともう一回今と同じストーリーを歩み、事故で終わる結末で無い未来を見てみたい。


その時は僕から先に自分の葬儀のことをリストにして渡して迷惑を掛けないようにして上げたい。

僕よりもせめて長生きしてエンジョイする人生を歩んでほしい。

もしも、そんなことができるならばそうしてあげたいと思っています。

とても悲しいことですが、僕も前を向かなければなりません。
聖子は家族がモチベーションを落としている姿は見たくないでしょう。

 

今回の死が僕に与えたメッセージは子供たちと僕は絶対に仲違いせずに楽しく生きていく。
聖子の死を言い訳にして後ろ向きな生き方はしない。
むしろ全力で楽しく生きていく。



僕は次の世界のことはわからないし、あの世とか極楽とかよーわからん。
でも、僕が死んだときにもう一度、聖子とあえて、今回のことを話ししたい。

なんでiPhoneのパスワード残してくれんかったん?
家の中で大切なものをまとめておいてほしかったよ。
そして僕のこれからの人生を語って上げる。

その時にまたいつもの笑顔で「お父さん、ホンマっ物覚え悪くなったね」と叱ってください。

僕はこれからも毎日必死に生きていきます。


聖子出会ってくれて本当にありがとう。

読んでくれた皆様、少しだけでも聖子に想いを寄せて、記憶を風化させないことが聖子が一番喜ぶことだと思います。