今回の妻・西本聖子の事故について、6月16日に通夜を、6月17日に葬儀・告別式を執り行い、いずれも滞りなく終了いたしましたこと、また献花台の設置などについては昨日までに投稿いたしました
ここ数日はどうしても業務報告的な内容を発信する必要があり、私のFacebook、妻のFacebook、店舗のSNSともに現在は私が運用しているため、私個人の気持ちについては触れず、事実を淡々とお伝えしてきました。
長文になるかもしれませんが、今の思いを書き綴ることで、自分自身の気持ちを整理したいと思います。
昨日、ようやく聖子の遺骨とともに子どもたち3人と自宅へ戻りました。
久しぶりに家族全員が揃って帰宅した形になりました。
通夜の夜も、子どもたち3人と棺の中の聖子のそばで眠りました。
布団は2組しかなく、みんなで川の字になって寝ました。
子どもたちが小さかった頃、聖子と私で子どもたちを挟んで川の字になって寝ていたことを思い出しました。
さて
6月14日(日)、私は東京で勤務している音楽学校の文化祭のようなイベントに参加していました。
一日中動き回り、かなり疲れて東京のアパートへ戻りました。
その日は早めに就寝しました。
そして6月15日(月)深夜午前2時40分。
携帯電話の激しいバイブレーションで目が覚めました。
画面を見ると広島県廿日市市の市外局番からの着信でした。
夜中に市外局番から電話がかかってくることなど、良い知らせであるはずがありません。
心臓が激しく鳴るのを感じながら電話を取りました。
ある救急病院からでした。
その時点では、聖子が事故に遭ったという報告でした。
「今すぐ来られますか」
「すぐに来られる親族はいますか」
そう聞かれました。
私は2年前にバイクの自損事故で救急搬送された経験があります。
そのため、この時は「大怪我をしたのだろう」と考えていました。
その後、一度電話が切られました。
私は動転しながら、どうやって広島へ帰るのが最も早いのかを調べ始めました。
レンタカーで帰れるのではないか、など現実的ではないことまで考えていました。
冷静になって調べると、
午前4時47分発の井の頭線に乗れば、新幹線を利用して午前9時39分に広島へ到着できることが分かりました。
午前3時1分、再び電話がありました。
医師から、心肺停止後30分以上が経過していること、一度は心臓が動いたものの、回復できる保証はないことなどを説明されました。
そして看護師さんから、
「奥さまには聞こえていると思います。最後に声をかけてあげてください」
と言われました。
私は電話越しに、
「愛している」
「ありがとう」
と伝えました。
返事はありませんでした。
再び電話は切れました。
午前3時17分にも電話がありました。
状況はさらに厳しいこと、私の母は来られるかという確認などでした。
しかし高齢の母が深夜に動くのは現実的ではありません。
私は「私が午前10時半頃には病院へ行きます」と伝えました。
その後、荷造りを始めました。
そして家を出る直前の午前4時26分。
病院から電話がありました。
正式に心肺停止したとの連絡でした。
私は、その言葉の意味を理解できませんでした。
急いで帰れば何かできるのではないかと、本気で思っていました。
そこからの移動は地獄のようでした。
電車も新幹線も、まったく前へ進まないように感じました。
涙で前が見えませんでした。
午前6時15分。
意を決して家族LINEで子どもたちへ連絡しました。
北海道、神奈川、高知にいる子どもたちが動揺し、事故に遭わないかが心配でした。
医師を目指している長女は、すぐに兄たちへ電話をかけてくれました。
その後、娘と電話で話しました。
新幹線のデッキで、二人とも泣きながら話しました。
私の母とも連絡を取り、子どもたちと合流方法を相談しました。
その後、警察から連絡が入りました。
救急病院から、広島県警察本部 高速道路交通警察隊へ移送されているため、病院には行かないでほしいとのことでした。
広島へ到着後、一度自宅へ戻りました。
急ぐべきなのに、もう1分2分早く着いたところで事態は変わらないという思いもありました。
猫たちのトイレを掃除し、餌を与えました。
そして場所を確認し、広島IC近くにある広島県警察本部 高速道路交通警察隊へ向かいました。
到着してまず事故車両を確認しました。
後方から追突された事故であると説明を受けました。
私はその瞬間まで、自損事故だと思っていました。
事故の状況について説明を受け、少なくとも私が想像していたものとは違うことを知りました。
その後、各種手続きがありました。
こういう時にも事務的な手続きがあるのだなと思いました。
そして遺体と対面できると言われました。
案内された安置場所で聖子と対面しました。
顔には出血の痕があり、両手には包帯が巻かれていました。
私は顔以外を見る勇気がありませんでした。
その時に初めて、本当に亡くなったのだと実感しました。
その後は親族や子どもたちとの合流、葬儀の準備に追われました。
午後2時40分には私個人のFacebookで訃報を発信しました。
不謹慎と思われるかもしれませんが、3丁目のたこボールの休業をお知らせしなければならないという思いがありました。
店舗のSNSにも転載しました。
その後、ご遺体を葬儀場へ移送することとなり、広栄社株式会社 葵会館様にお願いしました。
午後5時40分頃、子どもたちや親族が集まりました。
しかし現実は泣いてばかりいられる状況ではありませんでした。
通夜の準備、葬儀の準備、席数、香典返し、祭壇、お花、料理など、本当に多くのことを決めなければなりませんでした。
音楽の仕事では考えられないほどのスピードで、翌日の式を準備していく必要がありました。
そんな中、聖子のiPadが開けることに気づきました。
Facebookにもアクセスできました。
そして午後9時50分、聖子本人のアカウントから通夜の案内を発信することができました。
それはとても大きな安心でした。
また、当初は聖子の親族と連絡が取れず苦労しました。
仕事用の携帯電話から連絡先を見つけることができ、ようやく連絡がついた時には本当にほっとしました。
通夜当日も慌ただしく過ぎました。
私は喪服も革靴も東京に置いたままでした。
長男も仕事先から直接来たため喪服がありませんでした。
急いで買いに行くなど、本当に慌ただしい一日でした。
通夜では涙が止まりませんでした。
聖子への思いももちろんですが、多くの方々が集まってくださり、どれほど愛されていたのかを実感したからです。
結果として300名を超える方々にご来場いただきました。
立ち見になってしまった方、駐車場に入れず帰られた方もおられたと聞いています。
本当に申し訳なく思っています。
葬儀場の方からも、一般の方でここまで多くの来場者は珍しいと伺いました。
香典返しが不足し、後日配送になった方にもご迷惑をおかけしました。
その夜は家族で聖子のそばに集まり、再び川の字になって眠りました。
翌17日の葬儀・告別式も無事に終わり、火葬場へ向かいました。
多くのご友人にもお見送りいただき、お骨も拾っていただきました。
聖子も喜んでいると思います。
帰宅後、一つ気がかりなことがありました。
事故現場へ献花に行きたいという方がいることを知ったからです。
しかし現場はバイパス道路です。
飲食物や花が飛散すれば新たな事故につながる可能性があります。
また、私たち家族が回収に行くこともできません。
そこで子どもたちと話し合い、自宅前に献花台を設置することにしました。
準備を始めると、ちょうど聖子を偲んで来てくださっていた友人たちがいました。
せっかくなので一緒に作ってほしいとお願いし、献花台が完成しました。
すでに多くの方が手を合わせてくださっています。
地域の子どもたちが寄せ書きをしてくれているのも見ました。
本当にありがたいことです。
献花台について詳細は以下ページを必ずお読みくださいませ。
そして今日です。
子どもたちは疲れ切って熟睡しています。
私は朝早く目が覚めました。
事故前に遡りの事故前日、聖子は娘のフットサルの試合を応援しに兵庫へバイクで行っていました。
試合で2位になったと写真付きでLINEを送ってくれていました。
私はその時すぐには見ていませんでした。
病院からの電話を受けた後に見返しました。
「あの時、気をつけて帰りんさいと言えばよかった」
「高速道路を使って帰りんさいよと言えばよかった」
何か優しい言葉を返してあげればよかった
そんな後悔はあります。
今回の事故について、家族の中で相手への憎しみが話題になることはありませんでした。
もちろん許したという意味ではありません。
ただ、怒りを向けたところで聖子が帰ってくるわけではありません。
3日が経ちました。
悲しみはまったく消えていません。
それでも現実は前へ進み続けます。
手続きや対応は山のようにあります。
単身赴任中の私が広島の家をどう管理するのか。
猫たちはどうするのか。
仕事はどうするのか。
いろいろな現実が押し寄せています。
今、聖子がいたら、
「俺はどうしたらええん?」
と聞いていたと思います。
きっと、
「そんなの自分で決めんさいや」
と言われるのでしょう
こうして文章を書いている今でも、
「お父さん、朝ごはんできたけぇ上がってきんさい」
という声が聞こえてきそうです。
遺骨の入った小さな箱と遺影を見ていると、葬儀場にいた時よりも現実感が薄い気がします。
昨夜も子どもたちと将来のこと、私の老後のこと、兄妹が仲違いしない仕組みを作ろうという話をしていました。
リビングには笑い声もありました。
近所の方に「西本家は不謹慎だな」と思われるかもしれないと一瞬考えたくらいです。
でも、それも家族が前を向こうとしている証なのかもしれません。
今日からは聖子のiPhoneのロック解除の問題、取引先との精算、3丁目のたこボールの出店中止連絡など、まだまだやるべきことが続きます。
幸い、子どもたちが全員いてくれます。
私よりもしっかりした子どもたちで、本当に頼りになります。
そして皆さまのFacebook投稿を読ませていただくたびに涙があふれます。
聖子がどれほど多くの方に愛されていたのかを知ることができました。
妻でいてくれたことを誇りに思います。
乱文となりましたが、ここをご覧になる方はもちろんのこと、特に県内外の旧友や仕事関係の皆さまへ、私が今どのような状況なのかをお伝えしたく、この文章を書きました。
式場では十分にお話しすることも、お礼をお伝えすることもできませんでした。
そのことがずっと気がかりでした。
まだ気持ちの整理はついていませんし、これからも様々な手続きや対応が続きます。
それでも、この数日間でどれほど多くの方に聖子が愛されていたのかを知ることができました。
皆さまからいただいた言葉や思いは、家族一同の支えになっています。
子供達と僕たちはお通夜と葬儀の感想は「やっぱうちのお母さんは最後まで凄いわ!!!」という感想でした。
今はまだ一つひとつを受け止めるのが精一杯ですが、落ち着いたら改めてお礼をお伝えしたいと思います。
本当にありがとうございました。
私も子供達も前を向いて進んでいます。
2026年6月18日
西本 圭介







