√225さんのブログ -7ページ目

九月三日

もうすぐ八月も終わりかぁ。
そう言っていたのが、もう大分前のことの様に感じる。最近の私と言えば、日々をこなす、そんな時間の送り方だ。
しかし、もう三日か、とも思う。
何か変えようと願いながらも、私は何ひとつ変えようとはしていなかった。

なつきは今日も、ハンカチで汗を拭う。白地に黒い縁取り、ハイヒールの模様が描かれている。なつきにしては、ポップな柄だ。

いつもの電車は少し遅れているようだった。なつきは列を離れ、ペットボトルの緑茶をゴクゴクと飲みながら、列に戻ってきた。この行為は、快活なスポーツウーマン、といった感じだが、彼女の場合は不思議と上品に見えた。むしろ、大丈夫かしら、と心配になるようなはかなささえ感じる。

少し遅れてきた電車は満員で、息苦しい。さながら我慢大会だ。

なつきは珍しく携帯をいじっていた。毎日スーツを着て出勤する彼女は、おそらく営業をしているのだろう。しかし、彼女は時計をしていなかった。時間を確認するように携帯を開く姿は見かけても、こんなにも熱心に携帯を操作する彼女を見るのは初めてだった。

やはり何かあったのだろうか。

だがなつきの表情は、なかなか清々しいものだった。

私はいつもより少し遅い出勤の後のスケジュールを練り出した。このくらいなら始業まで一息つけるだろう。
少し強い足取りでホームへ降りた。

重くのしかかる陽射しの中、歩く人々の色が少し深くなったことに気付く。
少しずつ、少しずつ、秋を意識しだした町並みに、意識が遠退く。足が止まりそうになるのに気付き、遅れまいとまた強くコンクリートを蹴った。

九月二日

不快な熱気に起こされた。真夏のような暑さだ。半ば強引に差し込む陽射しを避けるように、腰をかけ、朝食をとる。低血圧の私にとって、朝の時間の過ごし方は、一日の全てを支配する重要なものだ。
朝番組に登場する女子アナウンサーを無条件に尊敬してしまう。

ぐったりするような暑さの中、スーツのジャケットを手に、今日も駅へ向かう。
あ~またシミが増えるわ。
大して気にしてもない愚痴を抱えながら、いつもより重い体を無理矢理動かす。

ホームは、少し前の、夏の光景だった。ひどく懐かしい気がするが、ほんの数日前も確かこんな光景だった。

なつきだ。
グレーのジャケットを無造作に手に掛けていた。なつきの着こなしはシンプルだが、ディティールの凝った質のいいスーツをいつも着ていた。
黒地にグリーンの水玉が入ったハンカチを、顔にあてたまま俯いているなつきは、泣き出しそうな顔をしていた。
暑さのせいなのか、昨日からのあの異変なのかは、わからない。
電車に乗り込むと、なつきの顔がしゅっとなる。
彼女は、随分切り替えが上手くなった。

ジャケットを鞄に乗っけて、左手で吊り革をつかむ。あの付箋の貼られた文庫本を、今日こそ読むらしい。

すっかり汗をかいた私は、カットソーを気にした。始業早々汗くさいのは、なんとしても避けたい。

向こう側から、移動してくる男がいる。ひょろっとしているが、焼けた肌の感じでスポーツをしているものだとわかる。おそらくテニスか何かだろう。

「なつ~」
なんとなく間の抜けた声。なつきは顔をあげた。
長田だ。

なつきは「あ~おはよ~」と返した。
二人が親しい仲だということは、見て取れた。恋人ではないことも、すぐわかる。幼なじみとか親戚とか、そういった空気だ。
しかしなつきの長田を見る目は、どこか遠くを見ているようだった。

昨日のなつきの異変は、この長田が原因なのではないか。
そんな結論を出した頃、流されるように、私はホームへ降りた。

九月一日

携帯電話を開くと、九月の表示に変わっていた。特に気に入った画像やら写真やらもない私の待受画面は、相変わらずカレンダーだった。なつきもまた、そうだった。

もう九月かぁ。

そう呟きながら、なつきは汗ばんだ額をハンカチでおさえる。アイロンのかかったラベンダー色のハンカチは、きちんと畳まれるでもなく、だからといって、何となく手の平サイズに畳まれたのでもない。少しずつ端がズレて折られていた。おそらく使い込むうちに伸びてしまったのだろう。現に私はそのハンカチで汗を拭うなつきを何回も見かけた。

ふぅっと溜め息を漏らす。
夏らしいこともせずに、九月になってしまった。
そんな気持ちの代弁のように聞こえた。いや、もしかしたらそれは私の声を勝手に投影しただけかもしれない。

降り続いた雨も今日は顔を出さない。蒸し暑く、べたべたする。八月と言われれば、八月だろうと感じる、そんな天気だ。
そもそも同じように時が刻まれる中、三十一日から一日に変わったところで、突然秋めくはずもない。

溜め息をついたなつきは、妙に感慨深げな表情を浮かべる。しかしその表情とは裏腹に、なつきの感情の波が振れたようには感じなかった。

学生がまだ夏休みだからか、混んではいるものの、車内には少しずつスペースがあった。
なつきは、所々付箋の貼られた文庫本を、肩に掛けた鞄から取り出した。その革の鞄は、随分なつきに馴染んできたようだった。吊り革を左手に持ち替え、その本に視線を落とす。
見知らぬ人間の集合体の中でも、彼女は上手に自分の空間にする。半年前の彼女には決して見られなかった姿だ。

しかし彼女はすぐに本を閉じ、鞄に視線もやらずにしまいこんだ。外を眺める彼女は、器用に本を読むことも出来ず、ただ混み合う車内から逃れるように外に顔を向けていた以前の彼女とは、明らかに違っていた。