加害者がいるから被害者が現れるのではなく、
被害意識を持った人が加害者を創り出している
私もそうだけど、つい自分が被害者設定でものごとを見がち。
それでもいいんだろうけど、それだといつまで経っても枠から出られない。
誰かが死んだら、『それを悲しんでいる私』
身内の誰かが死んだということを誰かから聞いたら『それを可哀そうに思ってあげている私』
私は『それを可哀そうに思ってあげている私』を演じつつ、
上からそれを俯瞰してる私が必ずいる。
この俯瞰の習慣をヨガでいかに作っていくかだと思う。
ダローロのメニューはもう何周しただろうか。
飽きるまで食べると決めるけどなかなか飽きないので困ります。
そしてみんなどんな気持ちで食べているんだろうと横をチラチラ見ます。