尾川永次のブログ -86ページ目

尾川永次のブログ

小説、ポエム、旅日記などなど徒然なるままに行きたいと思っています

        

 

 暮れなずむ群青の空の下。謙三はひらひらと舞い落ちる

 桜の花弁に埋め尽くされた狭い庭を抜け、黒い門扉に手を

 掛けた時、右肩に桜の花弁が乗っている事に気付いた。


 

 謙三は足を止め庭の大部分を占める桜をじっと見つめた。

 写真のせいもあるのだろう、三十八年前が昨日ように思い

 出せた。


 

「桜って良いわよね」

 

 土を固め終え、桜の苗木に水遣りをしている謙三の背中に、

 赤子の葵を抱きながら縁側に座っている春子が声を掛けた。


 

「そうだな、一斉に咲いて、一斉に散るなんて木は早々無い

 からな」謙三は水遣りの手を止め、手拭いで額の汗を拭った。


 

「これで毎年自宅の庭で桜吹雪が楽しめるのね」


 

 春子の言葉に再び水遣りをしようとしていた謙三が振り向いた。

 

「おいおい、素人の苗植えで根付くかどうかだってまだ分から

 ないのに気の早い話だな。それに一本じゃ桜吹雪とはならん

 だろう」


 

 呆れ顔の謙三をよそに、春子はすやすやと寝ている葵の寝顔を

 嬉しそうに覗き込みながら言った。

 

「いいのよ。私たち家族の分だけですもの。それに一本桜が風流

 なのよねえ葵」

 

 すると春子は思い出した様に謙三に顔を向けて言った「そうそう、

 記念写真を撮りましょうよ」


「そうだそうだ、忘れてた。カメラ持って来るよ」

 狭い庭の一本桜が風流かどうか分からないが、決して日当たりが

 いいとは言えない庭で枯れもせずに花を咲かせ続けたものだ。

 と、感心する謙三の肩で休んでいた花弁を、夕闇せまる夜のしじまから

 忍び込んだ冷たい風がそっと払った。

 




本当は今日、沼田城址公園に行く予定だったのですが
前日母がごねまして行けなくなってしまいました。
洗車してお菓子かったり飲み物買って準備してたんですけどねー。

行きたかったなー。

今は日に3回、犬のガーゼ交換と母の紙パンツ交換。
犬の食事と水もガードをしているので手で持ってあげなくては
なりません。
加えて炊事洗濯。

とにかくリブさん病気が治ればですね。

頑張らねば。
 

           「春の轍」


  真新しいスニーカーの紐を結び終えた謙三はズボンの

 後ろポケットから年季の入った黒い皮の定期入れを取り

 出して開いた。


 そこには少しくすんだセルロイドカバーの下で、生まれた

 ばかりの葵を抱いた春子が桜の苗木の横で微笑んでいる。


 三十八年間、背広の内ポケットの中で俺を支え続けた写真だ。

 定年退職でお役御免となるはずだったが、もうしばらく働いて

 もらうことになった。

 

 理由は新たな仕事が出来たからだが、その仕事が問題なのだ。


 本当に経験も知識も無い俺にこんなことが出来るのだろうか…。


 この言葉が頭の中を占拠していた。

 

 今日から仕事なのに何を言っているのかと自分でも情けない限りだが、

 腹でも痛くならないかと望んでいるのも事実なのだ。



 小学生並みだなと苦笑いをした謙三は緊張を解こうと眼を閉じ

 大きく息を吸うと、ふーっと吐き出した。  

 すると少しだが気が落ち着いたのだろう、春子が中学の部活で

 悩む葵に言っていた言葉を思い出した。


 

「貴方は貴方。それ以上でもそれ以下でもない。今出来ることを

 一所懸命やればいいのよ。それに出来ない事が出来るように

 なったら嬉しいよね」


 春子の言う通りだ。やらなければ出来ないし、出来なければ

 努力するしかないのだ。

 謙三の眼に力が宿る。


 「春さん、行きますよ」



 そう語り掛けると定期入れをポケットに戻し、自分を鼓舞するように大きな

 声で「よいしょっ」と立ち上がり玄関のドアを開けた。