真新しいスニーカーの紐を結び終えた謙三はズボンの
後ろポケットから年季の入った黒い皮の定期入れを取り
出して開いた。
そこには少しくすんだセルロイドカバーの下で、生まれた
ばかりの葵を抱いた春子が桜の苗木の横で微笑んでいる。
三十八年間、背広の内ポケットの中で俺を支え続けた写真だ。
定年退職でお役御免となるはずだったが、もうしばらく働いて
もらうことになった。
理由は新たな仕事が出来たからだが、その仕事が問題なのだ。
本当に経験も知識も無い俺にこんなことが出来るのだろうか…。
この言葉が頭の中を占拠していた。
今日から仕事なのに何を言っているのかと自分でも情けない限りだが、
腹でも痛くならないかと望んでいるのも事実なのだ。
小学生並みだなと苦笑いをした謙三は緊張を解こうと眼を閉じ
大きく息を吸うと、ふーっと吐き出した。
すると少しだが気が落ち着いたのだろう、春子が中学の部活で
悩む葵に言っていた言葉を思い出した。
「貴方は貴方。それ以上でもそれ以下でもない。今出来ることを
一所懸命やればいいのよ。それに出来ない事が出来るように
なったら嬉しいよね」
春子の言う通りだ。やらなければ出来ないし、出来なければ
努力するしかないのだ。
謙三の眼に力が宿る。
「春さん、行きますよ」
そう語り掛けると定期入れをポケットに戻し、自分を鼓舞するように大きな
声で「よいしょっ」と立ち上がり玄関のドアを開けた。