暮れなずむ群青の空の下。謙三はひらひらと舞い落ちる
桜の花弁に埋め尽くされた狭い庭を抜け、黒い門扉に手を
掛けた時、右肩に桜の花弁が乗っている事に気付いた。
謙三は足を止め庭の大部分を占める桜をじっと見つめた。
写真のせいもあるのだろう、三十八年前が昨日ように思い
出せた。
「桜って良いわよね」
土を固め終え、桜の苗木に水遣りをしている謙三の背中に、
赤子の葵を抱きながら縁側に座っている春子が声を掛けた。
「そうだな、一斉に咲いて、一斉に散るなんて木は早々無い
からな」謙三は水遣りの手を止め、手拭いで額の汗を拭った。
「これで毎年自宅の庭で桜吹雪が楽しめるのね」
春子の言葉に再び水遣りをしようとしていた謙三が振り向いた。
「おいおい、素人の苗植えで根付くかどうかだってまだ分から
ないのに気の早い話だな。それに一本じゃ桜吹雪とはならん
だろう」
呆れ顔の謙三をよそに、春子はすやすやと寝ている葵の寝顔を
嬉しそうに覗き込みながら言った。
「いいのよ。私たち家族の分だけですもの。それに一本桜が風流
なのよねえ葵」
すると春子は思い出した様に謙三に顔を向けて言った「そうそう、
記念写真を撮りましょうよ」
狭い庭の一本桜が風流かどうか分からないが、決して日当たりが
いいとは言えない庭で枯れもせずに花を咲かせ続けたものだ。
と、感心する謙三の肩で休んでいた花弁を、夕闇せまる夜のしじまから
忍び込んだ冷たい風がそっと払った。