903号室 第六章 侵食 | 尾川永次のブログ

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     903号室

                        尾川永次

  第六章  侵食 
「北中君。北中君」

 

 その声で俺は眼を覚ました。
「え、あ、はい」

 起こしたのは朝晩の管理人、木下だった。 
 気が付くと時計は七時を過ぎている。

 

「夜勤は馴れるまで時間が掛かるからね」
「すみません」
「ま、朝早く人が来ることは無いとは思うが受付も仕事だから気を

 つけてくださいね。じゃ、お疲れさん」
「気を付けます。お先に失礼します」

 

 いつ寝たのだろう。眠くは無かったはずなのに…。

 

 自問自答しながら弘治は帰宅の途についた。

 

 翌日も午前二時半に小百合がやって来た。
 今度はテーブルを動かすのを手伝って欲しいとのことだった。
 俺は返事一つで引き受けた。

 

 次の日も小百合は管理人室のドアをたたいた。
 ベッドの位置を変えたいのだと言う。
 もちろん俺は引き受けた。

 

 たまに来ない日もあったが小百合が来た日の翌朝は管理人に起こ

される日が続いた。

 

 しかも七日目からは掃除の不備も指摘されるようになった。

 そんなはずは無いと確認すると確かに清掃が出来ていない。

 事実だった。

 

 そう言えば日中はダルさと眠気で何もする気が起きなくなった。

夕方過ぎまでベッドから出られないのだ。
 だが、小百合と会っている時間は例えようの無いほどの幸福感で

満たされる。
 まるで雲の上を歩いているかのような、そんな感覚なのだ。

 

「ねえ聞いてる?」

 帰宅後の朝食時、茶碗を持ったままテレビを観ている弘治に香苗は

話し掛けたが無反応だった。

 

「ねぇ、聞いてるの?」
 少し大き目の声になってやっと弘治が気付いた。
「え、あ、聞いてるよ」嘘だった。
 虚無感とでも言うのだろう。起きてはいるが、ただぼーっとしている

だけの時間が増えたのは自分でも分かっていた。
 ここのところ就職活動もしていないし昼はずっと布団に入ったままだ。

 

「就職どうするの?」
「うるさいなー。考えてるよ。もういい、俺は寝るぞ!」

 

 弘治は心配する香苗にぞんざいな言葉を使う様になっていた。夜の

高揚感に比べて日中の焦燥感は誰の眼にも明らかだったが弘治に

とってはどうでも良い事になりつつあった。

 

 ベッドルームに歩いて行く弘治を食器を洗いながら早苗は横目で

観ていた。

 

 何が原因でこんな風になってしまったのだろう?仕事の内容を聞く

限りでは弘治を変えてしまう様な点は見当たらない。

 香苗の中に不安と心配が積み重なって行く。

 

 その時だった。

 香苗の眼に見えてはいけない物が見えた。