903号室
尾川永次
第二章 903号室
十三階で停まっていたエレベーターが突然動き出した。
このビルのエレベーターは何処かでボタンを押さないと停止階に
停まったままのはずだ。
弘治は掃除の手を止めてエレベーターのインジケーターを見つめた。
エレベーターは九階で停った後、再び階下へと動き出し、一階で
停まった。
弘治は十三階の廊下から身を乗り出しエントランス前を見下ろした。
エレベーターの故障かもしれないが、もしかすると誰か居たのかも
しれない。たまに残業だったり忘れ物をとりに人が来る事もあると
聞いていたからだ。
清掃のバイトだが夜間の出入りに関する管理の仕事も含まれ
ている限りは確認しなくてはならない。
少しするとエントランスから女性らしき人影が出てきた。
白いワンピースに長い髪が腰まで伸びているのが街灯でも確認
出来た。
やがて女性は夜の街に消えた。
どうやら九階の何処かの部屋に人が残っていたようだ。
「ったく、九階の何処の部屋か知らないけど、居るなら居るで連絡
しろってんだよなー」
弘治は舌打ちをすると仕事に戻ったが九階で別の事を思い出し
ていた。
903号室。
ここの玄関ドアだけが他と違って木製なのだ。住人が取り替え
たのだろうが一つ気になる点があった。
他の玄関は金属製で全て同じタイプ。管理人室に置いてある
マスターキーで開けられる。緊急時に対処するためだ。
だが、ここだけ鍵穴の形が明らかに違っていて、どう見ても管理人
室に置いてある鍵では開けられそうも無い。
弘治は今日の出勤時、入れ違いになる遅番の管理人天谷に聞いた。
「天谷さん。903号室のドアってここに在る鍵じゃ開かないですよね」
帰り仕度をしていた天谷は手を止めて振り向いた。
「ああ、903号室か。あそこの鍵はここには無いんだよ」
「どうしてですか?何かあったら困ると思うんですけど」
「気にしなくて大丈夫だよ。あそこはビルのオーナーの部屋でね。
ただ何年か前にオーナー夫婦と同乗していた孫が車ごと海に転落
して夫婦は死亡、孫は行方不明になっちまってなあ。家財道具残
したまま今は誰も住んで無いんだよ。で、後はお定まりって訳だ。
子供達がここの権利をめぐって係争中。売れば数億になるからな。
で、勝手に入られない様に弁護士が鍵を取り替えたんだよ」
「そうだったんですか」
「裁判が結審すればあの部屋も貸し出されるとは思うけどね。じゃ、
お先」
天谷は軽く挨拶をして部屋を出て行った。
気が付くと数メートル先の主を失った903号室の玄関を見つめて
いた弘治だったが直ぐに清掃を続け四日目の朝を迎えた。