春の轍 ⑫の2
尾川泳児
―背景。謙三さん、お怪我の具合は如何ですか?
人伝に交通事故に遭われたとお聞きしました。
謙三さんにお会いした翌週に彼を連れて伺ったのですが
居られなくて残念です。彼にも食べてもらいたかった
です。
私は今、婚約者の実家、倉敷にいます。謙三さんの
住所が分からなかったので母に託すことにしました。
その節は本当にお世話になり、有難うございました。
謙三さんにお会い出来て無かったら今の私は無いと
思っています。
実は、あの日。彼から理由もなく突然の別れを切り出
されまして。
ただ、どうしても納得いかずに理由を教えてと懇願
しました。最初は頑なに拒んでいた彼でしたが根負け
したのか話してくれました。
余命三年と医者に宣告されたそうです。
ショックでした…。
もう生きる気力も無くしたまま部屋を飛び出して、
どこを同歩いたかさえも覚えていません。
気が付いたら謙三さんが目の前に居られたのです。
あのまま一人で居たらどうなっていたか分からない位、
本当に自暴自棄になっていました。
でも、謙三さんにお会いして、春子さんのラーメンを
食べて、明日が見えた気がしました。
悲しいことだけど、今を大切にしたい。そう思えたの
です。
私は彼に付き添い残された時間を共に生きたいと彼に
伝えました。
当初は頑なだった彼も謙三さんと春子さんのお話しを
したら、最後は納得してくれました。
先月は二人でハワイに行ったんですよ。私の水着姿に
彼もメロメロでした(笑)。
もし、もう一度屋台をなされるのであれば、彼が元気な
内に食べにお邪魔させて下さい。彼にも謙三さんと春子
さんのラーメンを食べてもらいたいのです。
そうそう。最後にこれを伝えたいのです。 謙三さん。私は今、幸福です。
残された時間は少ないですがとっても幸福です。
謙三さん、春子さん、本当に有難う御座います。
長々と書き連ねてしまいましたが、この手紙が謙三さん
の下へ届くことを切に願ってやみません。
くれぐれも御身体を大切にしてくださいね。
田代夏子より鬼島謙三様へ 敬具-
謙三は赤くした眼を閉じ、軽く深呼吸すると読み終えた
手紙を封筒に戻した。
「そんな辛いことを抱えていたなんて…」
美智子も眼に薄っすらと涙を浮かべ頭を下げた。
「本当に有難うございました。今こうして、娘が元気に
暮らせているのも鬼島様のおかげです」
「いえ、私はそんな大そうなことはしてませんから」
「あの日以来、事あるごとに謙三さん謙三さんて言うもん
だから、彼氏がやきもち焼いたくらいなんですよ」
「そうなんですか」謙三は照れ笑いをしながら頭を掻いた。
「父親の記憶が少ないあの娘にとって鬼島様は父親なの
かもしれませんね」
「お父さんよりお爺ちゃんですけどね」
「いえ。貴方様にお会いできなければ娘はどんなになって
いたことでしょう。娘共々、改めてお礼に伺いたいと
思っております」
「お礼だ何て。来月からラーメン屋を再開しますので皆さん で食べに来て下さればそれで十分です。春子もそう思って いますよ」
「再開されるのですか。それは本当におめでとうございま す。明日、顔観がてら夏子の所に報告に行きます。あの
娘も喜びますよ」
「こちらこそ宜しくお伝え下さい」
「はい」
美智子は改めて正座すると深々と頭を下げた。