春の轍 ⑫の3
尾川泳児
「今日は突然にお邪魔いたしまして申し訳ありません
でした。電車の時間もありますので、この辺で失礼
させて頂きます」
「そうですか。こちらこそ、わざわざ来て頂いたのに
何のお構いも出来なくて」
「こうしてお会い出来て夏子の思いを伝えられただけで
十分ですから。それでご迷惑でなければ奥様に御挨拶
させて頂ければと思うのですが、宜しいでしょうか?」
「勿論ですよ。有難うございます。仏壇は二階ですので、
こちらへどうぞ」
「では、失礼させて頂きます」
二人は二階へと上がって行った。
少しして、謙三と美智子は門扉を挟み別れの挨拶を交わ
した。
「今日は有難う御座いました。夏子さんに宜しくお伝え
下さい」
「こちらこそ突然で失礼しました。それでは失礼いたし
ます」
「お気を付けて」
美智子は笑顔で会釈すると駅に向かって歩き出した。
すると謙三と別れて数分後、美智子は声を掛けられた。
「あの、すみません」
「はい?」
美智子が振り向くと謙三の娘、葵がそこに居た。
一ヶ月後。
謙三は家の前に置かれた屋台の引き手の中に立ち、
葉桜になりだしていた庭の桜を見上げていた。
ひらひらと残り少ない花びらが街灯に照らされながら舞い落ちて来る。
「さてと行くか」
心新たに引き手を持ち上げると謙三は再びの第一歩を
踏み出した。
すると予想だにしない軽さで屋台が動き出した。
(え?誰かが押しているのか?)
謙三は慌てて屋台を止め後ろを覗いた。
屋台の後ろに誰か居るのだ。
謙三はブレーキを掛けて屋台の後ろへ周ると、そこには葵が
居た。
「葵!此処で何してるんだ?」
「何って、見れば分かるでしょ。押してるのよ」
「そういう意味じゃなくてだな」
「分かってるわよ。病み上がりで屋台を引くなんて無茶よ。 また事故でも起こされたら困るしね」
「それならそれで、一言言ってくれないとビックリした
じゃないか」
「声掛けようとしたらその前に動き出したから、慌てて
押したのよ。それより開店時間に遅れちゃうから、
さっさと行くわよ」葵は屋台を押す姿勢を取った。
「お、おう」
謙三も慌てて引き手に戻り屋台を引き始めたが直ぐ
に止めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。葵、手伝ってくれるのは
有り難いが、客は来ないぞ。夜中まで何もせず、じっと
待つだけだ。儲けも無いからバイト代も払えんぞ。それ
でもいいのか?」
「儲かったらたんまり貰うわよ。それより屋号変わったん だ。”春夏”でしゅんかって言うの?」
「ああ、夏子さんの夏を貰ったんだよ。何たってお客さん
第一号だしな」
「いいんじゃない。夏子さんが食べてくれてなかったら
どうなっていたか分からないしね。お母さんも喜んでる
わよ」
「だといいんだがな」
「ほら。早く行かないと」
「そ、そうだな。じゃ、行くぞ」
「はい」
返事と同時に屋台が動き出した。
すると後ろから葵の声が聞こえた。
「お父さん」
「何だ?」
「頑張ろうね」
「ああ」
満面の笑みを浮かべ屋台を引く謙三の頬に春の夜風が
心地よかった。