春の轍 ⑫の1 | 尾川永次のブログ

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      春の轍 ⑫の1

                      尾川泳児

 

 事故から半年。
 退院した謙三はリハビリを続け散歩や体操が出来るまでに

回復していた。

 

 そんなある日、散歩から戻ると運送業者のトラックが家の前に止まっている。
 この日がやってきたのだ。

 

 謙三は胸が高鳴るのを感じながら小走りに近寄って声を掛けた。
「ご苦労様です。屋台は車の横でお願いします」

 

 トラックに乗り込もうとしていた運送業者が振り向いた。
「鬼島謙三様ですか?」
「はい。そうです」
「屋台をお持ちしました。車の横ですね」
「お願いします」

 

 謙三は駐車場に置かれた真新しい屋台をしげしげと見つめた。 
 その表情は以前とは明らかに違っていた。

 厄介物だったはずの屋台が今は待ちわびる存在になっていた

のだ。

 

 とにかく嬉しかった。春子が帰って来た。そう思えたからだった。

 

 そんな謙三に葵が声を掛けた。
「新しい屋台、来たんだ」
「おう、葵か。今来たばかりだよ。それよりどうしたんだ今日は?」
「お昼ご飯作りに来たのよ。ちゃんとしたもの食べてないでしょう」
「即席ラーメンだってちゃんとした食べ物だぞ」
「やっぱりね。で、何食べたい?これから買出しに行ってくるから」
「そうだな…おいなりさんに豚汁がいいかな」
「お父さん、お母さんのおいなり好きだったよね」
「まあな」
「私に母さんの味が出せるか分からないわよ」
「大丈夫だ。期待はしてないから」
「何よそれ。作ってあげないからね。とにかくスーパー行ってくる。
 それと後で健太郎と旦那が泊まりに来るからね」
「お、健太郎来るのか、久しぶりだな」
「これ宜しくね」

 持っていたボストンバッグを謙三に預け、葵はスーパーへと向った。

 

 すると十五、六メートル程離れたところで謙三が声を掛けた。

「そうだ、ビール切れてるからな」
「分かった」葵は振り向きながら手を振った。

 

 そんな葵の後ろ姿を見送っていた謙三に女性が声を掛けた。

 

「すみません。こちらは鬼島謙三様のお宅ででしょうか?」

 

 振り向くと五十過ぎ位だろうか、品の良さそうなご婦人が立って

いた。

 

「はい、私が鬼島ですが。何か?」
「やはりそうでしたか。私、田代美智子と言います」
「田代美智子さんですか…」
 一通り思い出しては見たが田代美智子なる名前に心当たりは無かった。

 

「田代夏子の母です」
「え?夏子さんのお母様」
「はい。その節は娘が大変お世話になりまして。本当にありがとう
 ございました」
「いえ、そんな。こんな所で立ち話もなんですから、宜しければ

 お上がり下さい」

 

 そんな二人の姿を何気に振り向いた葵が見ていた。

 

 夏子の母、田代美智子を居間に通した謙三は不慣れな手つきで

お茶を出しながら言った。

 

「何分にも男所帯なもので大した物もお出し出来ずにすみません」
「いえ、こちらこそ突然お伺いして申し訳ありません」
「よく、ここが分かりましたね」
「駅前の竜王さんてラーメン屋さんのご主人に教えていただきました」
「なるほど。ところで夏子さんはお元気でいっらっしゃいますか?
 せっかくお客さん第一号になって頂いたのに怪我で商売が出来

 なくなってしまいまして。もし来ていただいてたら申し訳なくてね」 
「夏子は今、岡山で暮らしております」
「岡山ですか。お仕事の関係で?」
「婚約者の実家が倉敷なんですよ」
「そうでしたか。それはおめでとうございます」

 

 美智子は持っていたハンドバッグから一通の封筒を取り出し、
謙三に差し出した。

 

「夏子からの手紙です。是非、ご一読いただければと」
「そうですか。では、読ませて頂きます」

 

 謙三は手紙を取り出し読み始めた。