春の轍 ⑪の4 | 尾川永次のブログ

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       春の轍 ⑪の4

                    尾川泳児

 

 やがて吉祥寺駅前通りに出た。
 人通りは途切れたが、流石に金曜の夜である。あちらこちらで

酔いにまかせて騒いでいる集団が歩道を占拠していた。

 

「謙三さん、このマンションです」

 その声に謙三が屋台を止めると息を切らした夏子が前に周って

来た。

 

「思ってた以上に屋台を押すのって大変なんですね」 

「押してくれてありがとう。明日筋肉痛にならなければいいんだけど」

「こう見えても学生時代は陸上部だったんですよ」

「へー、そいつぁ大したもんだね」

「インターハイにも出られませんでしたけどね」夏子は少し照れ

ながら笑顔で言った。

「何かに打ち込んだだけでも偉いですよ」

 

 すると夏子は礼儀正しく頭を下げた。
「今日は美味しいラーメン有難うございました」

「夏子さん。また食べに来てくださいね」

「勿論行きます!おやすみなさい、謙三さん」

 夏子は笑顔で手を振りながら小奇麗なマンションの中へと消えて行った。

 

 謙三は再び屋台を引き始めた。一人で引く屋台は少し重く感じたが、それでもいつもに比べたらはるかに軽い。そう思えた。

 

 自宅へと向かう足取りはいつになく速かった。
 やめていたビールを飲みながら今日のことを一刻でも早く春子に

報告したかったからだ。

 

 その時だった。

 

 激しい衝撃と共に謙三の記憶はここで途絶えた…。

 

 眼が覚めると見たこともない部屋に居る事に謙三は気付いた。

 足元を観ると包帯に巻かれた足が天井からのベルトで浮いて

いて、その横では葵がスマホを操作していた。

 

「葵…」 

「お父さん、眼が覚めたんだ」

 

 謙三は病院のベッドで躰中に包帯を巻き横たわっていた。
「俺は」
 そう言いながら躰を起こそうとしたが激痛で顔が歪んだ。
「痛てて…」
「駄目よ。躰動かしちゃ!安静にしてないと」
「俺はどうしたんだ?」
「覚えてないんだ」
「ああ、何か衝撃のようなものを感じたまでは覚えているんだが…」

 

 やがて全てが判明した。
 前方不注意のトラックが屋台の後ろから突っ込んだのだ。

 

「それで母さんの、春子の屋台はどうなったんだ?」
「原型留めてないほど壊れたけど屋台があったからこの程度で

 済んだんだって。警察の方が言ってたわよ」
「そうか…」
 謙三は首だけ起こしていたが力なく枕に沈み込んだ。

 

「屋台と治療費は相手の会社が弁償してくれるそうよ。でも、

 もう辞め方がいいんじゃない。お母さんも心配してると思うし」

 

 じっと病室の天井を見つめたまま謙三が答えた。
「母さんの夢が叶えられそうなんだ。初めてのお客さんも来たしなあ」
「とにかく躰を治すことが先決よ。四箇所も骨折してるんだから。

 でも脳や脊椎にダメージは無いそうだから治れば後遺症も無く

 元の生活に戻れるって、先生おっしゃってたわよ」
「お前にも面倒掛けたな」
「しょうがないでしょ。親子なんだから。それにこれからもよ。退院

 したらリハビリに来なきゃいけないし」
「そうだな」
「今日は帰るわね。明日また着替えとか持って来るから」
「ありがとうな」
「じゃあね」

 

 ドアが閉まると訪れた静寂の中、謙三は眠りに落ちた。