③ 『愛しくて』
「疲れて寝れないかい?」
「ううん。大丈夫よ」
床に着いて三十分程して、寝返りを打った章子を観て、新平が訊いた。
「明日、布引観音まで歩けそうか?」
「勿論よ。でも、しんどくなったら貴方におぶってもらうから、心配してないわ」
「おう、任せてくれ」
章子は出会った頃を思い出していた。
慣れないヒールを履いてデートした時、くじいて歩けなくなった自分を
新平がおぶってくれたことを。
この人となら、共に歩いていける。
新平の背中で、そう思ったことを。
だが七十を過ぎた夫の足で、自分を背って険しい山道を
二十分も歩くことなど、不可能だと、章子にも分かっている。
勿論新平もだ。
言葉だけでも甘えたかった、そんな気持ちからだった。
少しすると、薄明かりの中、ぼんやりと天井を観ていた新平の布団に、
章子がそっと入って来た。
「ん?どうした?」
「いい?」
思いもかけない章子の行動に、一瞬戸惑いを見せた新平だったが
笑顔を浮かべて受け入れた。
「ああ」
章子は新平の腕に頭を乗せ、細くなった腕を新平に胸に廻した。
章子の温もりが、息遣いが、伝わってくる。
幸せな時間のはずなのに・・・。
何も出来ない無力感で新平の胸は押しつぶされそうな気がした。
すると、章子が上目遣いで新平に言った。
「こんな風に寝るなんて、何年ぶりかしら?
」
少し大きく呼吸した新平が、少し緊張した声で言った。
「眼を。眼をつぶってくないか」
「え?」
今度は章子が不思議そうな顔をしたが、直ぐに気が付いたらしく、
静かに眼を閉じた。
新平は章子の唇に、自分の唇を重ねた。
すると章子の眼から、涙が一筋、こぼれた。
新平が章子を抱き締め、章子もそれに答えた。
「貴方と一緒になれて、本当に良かった」
「俺もだ」
子猫の様に俺の腕に身を委ねる章子が愛しかった。
今が。
今が、いつまでも続いてくれたら…。
儚い夢を俺は願っていた。