言葉を発することに異常なまでの恐怖を感じる。
最近はよっぽどのことがないと冗談以外の発言をしない。
体調は相変わらずで、ようやく中間発表、ゼミ発表、バイト、講義、往復4時間通学のハードスケジュールに緩和の兆しが見えてきている。即就活スタートだけど。
で、昨日は研究室忘年会。
今年は4年が4人も入って、エキサイティングなK先生、変態のNさんのお陰で、ものすごく大変な1年だったけど、楽しく過ごせた。
感謝感謝。
K先生との会話はK先生が仰るように、ケミストリーを感じるほどの議論に発展する。
それは、私のモチベーションを確実に上げ、劣等感を自信に変え、論理的に話すことを教えてくれる。
K先生は、私という学生の代弁者からの発言にとても興味を示してくれて、会話をするということに悦びを感じてくれている。私という人間に少しの期待を抱いてくれていることを感じられる。
K先生は人が思うほど奔放ではないし、確固とした意見を持っているが決して独りよがりでもないし、発言する相手も選んでいる。ときには偏るけど。
私に、
何でもあなたは全力投球なのね、適当が大事ね、
Yさんだったから、この講義いつも楽しいわ、
と言ってくれたことが何より幸せだった。
理解してくれていると感じたからだ。
私は将来の不安を発言したとき、K先生に、
脚光など要らない
誰かの役に少しでも立てるような仕事に就ければそれでいい
たとえそれが今の研究を生かせなくても
Y先生にせっかく教えてもらっているからY先生には申し訳ないけど
って話した。
でも、昨日のY先生のTAの話を聞いて私が発した言葉の節々には、
評価が欲しい
って思いは明白だった。
こんなに頑張ってるんだ
ってわたしは子どもか。
さぼったり、要領よくやるOが一側面だけ見ていいように評価され、なぜ全力でやってるわたしはだめなんだって。
要員が足りないと知って色んな人に声をかけたり、補足資料が用意されていないときに、資料を集めたり、ゴミ捨てに行ったり、学生ひとりひとりの顕微鏡をのぞいたり、予習でT先生やM先生に教えてもらいに行ったりとか、全部仕事をちゃんとする上では必要なことだけれど、必死でやってる私って何なんだって。
わたしが一番大事にしている気持ちは、学生が私という人間に助けを求めているときに、声をかけて支えるということであり、それにお礼を言ってくれて、出来ないと言ってた子が出来るようになりましたって、目をキラキラさせて今にも泣きそうな顔でわざわざ言いに来てくれたり、いつも親しげに教えを請うてくれる子がいたり、ボケツッコミを上手くしてくれて反応を示してくれる、かわいい学生たちが居てくれるだけでいいのに、
いざ評価なんかされているような事実を耳にしたら、
正当な評価が欲しいと思う。
それって間違ってますか?
私が発した言葉は最悪だった。
Y先生を困らせ不快にさせた。
あれだけ空気を読むことに神経を尖らせてきたのに、あの発言で一気に壊れた。
そういう発言で信頼って一気に失ってしまうものなんだ。
自分にまだやれることがあって、少なくとも、あの場で私を必要としている人たちが居てくれるという事実はすごくありがたいこと。
でもどうしてこんなにも暗い影を落とすのか。
木漏れ日を見つけて必死で伸びようとしている稚樹みたいに、広大に入ってからずっと走ってきた。
私は林冠木じゃなくて、林床で張ってる存在で、明るい眩しい光を照らされるような存在じゃない。
たとえ日の目を見なくてもいい。
でも確実に、評価され、認められるという行為は人に自信を与える。