父に、

「この本読んでみて」

と言われ、手にした本は、本村さんの本だった。


日々の忙しさにかまけて、ずっと知りたいと思っていた事実がそこには書き連ねてあった。

犯罪に良いも悪いもないが、ここまでひどいなんて想像以上だった。


父が私に勧める前に、父が目頭を押さえて読んだその本は一体何なんだろうと思っていたが、まさかこれとは。


本村さんのことをこの日記に書くことは軽率かもしれないけれど、彼に対する心からの尊敬の念から、本を読んで感じたことを書きたい。


この問題で取りだたされるのは、日本の司法の在り方、あまりにも犯罪の多い日本の実態だ。

ひとつめは、少年法などについては、本村さんを始め多くの人の力によって改善の方向へ向かっているのだろうと思う。しかし、これはきっと氷山の一角であり、様々な問題が山積みとなっていることは容易に想像できる。


私自身、犯罪によって命を落としかけた経験があり、悔しい思いをした。

先日、何処の県か忘れたが、同じような事例がニュースで報道されていた。

ニュースになるほどの犯罪だったのか、と改めて思うとともに、上で取り上げた2つの問題を考えざるを得なかった。


ふたつめは、犯罪を起こしてしまうのはなぜなのか、このような人の心理はどうなっているのか。このことは、今の日本の経済状況などを反映しているのか。

これらの疑問を1つずつ解決していかなければならない。


労働の在り方の変容によるものだとすれば、能力主義or年功序列制の議論、個の肥大化、文明の異常な発達により他人との関わり方に対する能力が欠如しているなどの議論など、これら以上の多くの議論を要する問題だと思う。


今の流れに乗って、いかに今労働の一部として関わっていけるか、ともがき、まだ学生の身で社会人として生きていない私には、これに対する考えを発する権利などないかもしれない。

しかし、いずれにせよ、問題は複雑に絡み合っており、近いうち社会人になり僅かながらも社会に貢献し日本の将来を担う一部の人間として生きていくために、どうしていけばいいのか、真面目にぬかりなく考えていきたいと考えている。



ここまで、本村さんたちが立ちはだかった壁について述べてきたが、私が最も心に残ったのは、やはり「命」と「人としての生き方」についてだった。


家族が入院や手術をすることが多かったり、犯罪に巻き込まれたりした経験から、”生きている”こと、それだけのことが、それだけでとは言えないくらいどれだけ尊いことか、わかっていた。

でも、本村さんは懐が違う、もっとおおらかな心を持っていると思う。

こくだけど、酷い経験をすればするほど、涙を流した経験が多いほど、人の痛みがわかるものだと思う。しかし、本村さんはそんな一般論とは別の次元に居る人のような気がする。


中学生から自身の病気のために、健康な人を羨んだり、動けない身体をもどかしく思ったり、家族や周りの人の迷惑になっていると罪悪感に苛まれたり、どれだけの苦悩があったのだろう。

それでも、自分のやれることを精一杯やって、自分の目に見えているものを真摯に受け止めて、そこから多くのものを学ぼうと自分を奮い立たせ、大学まで生きていかれた。

そして、大切な人に出会い、子どもが出来ないと言われていた身体を回復させ、子どもを授かるまでになった。

あのような事件がなければ・・・と誰しもが思うだろう。

奥様も自分のことよりも家族や周りの人優先で、家族を心から愛する素敵な人だったそうだ。


人のために何が出来るだろうといつも考えて生きていた彼らは、勿論愚痴なんて言わなかったそうだ。

本村さんは、事件後に両親に気丈に大丈夫だと答えていたと書かれてあった。


人として当たり前のことなのかもしれない。

しかし、なかなか出来ることではない。

ここまで強くいられる人に本当に感銘を受けた。


彼らは、

本当に人を愛する

ということを知っていたんだろうなぁ。


本村さんに対しても奥様に対しても、本当に尊敬の念を抱きます。


恥ずかしながら、少しのいさかいに対して神経を使い、傷ついて、根をあげそうな自分を本当に情けなく感じ、この本を読んでからは、

ちょっとのことで愚痴なんて言えない

申し訳ない

と感じた。


最近、今更ながら、周りからみた自分という存在について深く考えさせられる出来事もあり、自分と他人の関係は、自分だけで作るのではないということも痛感した。

私は自分を向上させようという気持ちの中で、将来の仕事やそれによって誰かの役に立てる人として大成したいという願望が多くを占めている

その願望のためには、「自分の考え」をしっかり確立させなければいけないとも思っている。

しかし、かんさんの「悩む力」にも書かれてあったが、”個”(本文では”自我”)は自分の城を築き上げることによっては成り立たず、他者との相互の承認によってしか成り立たないのである。

他者を排除した自我はありえない。


人との関わりは勿論大切だと思っている。

家族や親友を始め、周りには大切な人が沢山いる。

でも、例えば「合わないな」と感じた人との関わりはかなり希薄だ。

以前は、話し合うことが最善の方法だと正義感を振りかざして頑張っていたが(いや何もわかってなどいなかったため出来たのかもしれない)、分かり合えない人もいるんだ、と諦めてしまう。

それは、自分を守ることだ。

そうだ、それは自分を大切にすることなんだよ、

と言ってくれた親友もいて、とても心救われたこともある。


でも、やっぱり虚しさが残る。

それが人間関係の難しさなんだろうと痛感させられ、いやこんなもんじゃないですよと、後になって思うほど大変なことがこれからも沢山あるだろう。

しかし、私には多くの欠点の中で、会話の”何故”⇔”意見”が成り立っていないという致命的な欠点がある。

そこを解決するのはかなり骨の折れる作業なんだろうなと思うけれど、自分の意見を言い、理解してもらい、相手の意見も尊重できる、そんな当たり前の会話が出来るように、私のとりえである”真面目”という性質を使って頑張っていこうと思う。


こんな私が、自分の城に多くの人もいられるような世界を作れるかわからないけど、やれるところまで真面目にやりぬきたい。