何かがひっかかっている。
ずっとそれに気付いていたはずなのに、見ない振りをしていた。
向かいあうのが怖いからだ。
やるべきことを淡々とこなしていけば、おのずと答えも見えてくるだろうと思っていたが、それは来るべき就活や修論に向けての1つの対策であって、
自分がどうありたいか、
目下の未来、卒業後はどうしていたいか、
を掘り下げずにいた。
以前の就活で、就活が非常に厳しいことは身に詰まるほどわかっている。
だからこそ、それに対応した戦略が必要だということも、それには日々の積み重ねが大切だということもわかっている。
Y先生とどうしたら就活は上手くいくのかを話したとき、本当に何がしたいのか、未だわかっていないことに呆然とした。
就活に関して経験もしたし知識もあるけど、肝心なところはまだ空いたままだった。
目の前の課題に躍起になってしまっていた。
戦略は必要だ。同時に「私」の考えも必要だ。
「私」の考えを受け容れるほど社会は寛容なのだろうか。
見たことのない世界なのだから、ぶつかってみるしかないのだけれど、不安になる。
それを一喝する確固な考えを構築していないからだろう。
以前ずーにーさんの本で、”なりたいもの”だけでなく、+描いているビジョンが必要だと知った。
それはまさしくその通りだと思った。
それを裏付ける根拠も勿論必要だ。
でなければ、誰も納得してくれないだろう。
もし、誰かが「環境問題は解決しなければならない即急な課題なので、それに取り組み、貢献していきたい」と言っても、それだけでは、本気なのかもわからないし、何でそう思うのか、具体的にはどうして行きたいの?って自分でも問いたくなってしまうもの。
でも、それを明らかにするのは大変に骨が折れる。
何せ、外の世界がどんなものか知らないし、何が出来るかもわからないし、どこまで自分がやれるかわからない。
8月にあった学部時代の友人が言った言葉が心を揺らす。
彼女はもう働き始めているのだが、
「結局なんにも出来んのんよ」
と言っていた。
確かに会社の求めるものを隙間無く今突然社会に出て応えられるかどうか、そんなの出来るわけがない。
私の言いたいことはそうではない。
その言葉は、院生に対する侮辱か?と思うほどの言い口だったので、大変に腹が立ったが、それはさておき、”気持ち”が要るんじゃないですか?と思った。
自分なりのビジョンを現実にしたいという気持ち、そのために日々努力しているかってことじゃないかと、そのときはっきりわかった。
ビジョンを現実にしていく過程で、自分が描いていた浅はかな考えや青写真は間違っていることに気付くこともあるだろうし、自分の無力さもいやというほど思い知らされるだろう。
今、そのビジョンを明らかにしたい。
自分が日々感じているささいなことを、紐解いていく作業を日々すべき課題の中に盛り込む必要があるだろう。
ひっかかっているのは、ビジョンをはっきりさせずに来るべき日々を怯えて待つことに疑問を感じていたことが一因だと思う。
Y先生の卒業生のTちゃんの進路に想いを馳せて見る。
彼は、園芸の会社に行くことになったそうだ。
それも彼が第一志望としていた会社であると聞いたので、去年の秋以来相当思考を巡らせたのだろうと感慨深く思う。
彼の出した答えは、園芸の会社で働くこと。
具体的なビジョンは聞いていないのでわからないけれど、彼の植物に対する思い、自然に対する思いを繋いでいける道を選んだ結果なのだろうと思う。
私も、納得のいく就活をしたいと思う。
結局は研究者も破壊者なんだという考えはどうなったんだろうか。
私の今言える考えは、対象をモノとして見るか、対象の周辺にある課題を本気で解決したいと思って見ているかで大きく違うのではないかと思う。
研究に重大な目的も意味も無くなれば、やる意味もない。
やる人にその想いがなければ、もっと意味がない。
このことは明らかになったとして、それではなぜ研究という道を進まなかったのだろうか。
実際に研究をしてみて、生きものと接しているという実感がなかったことに疑問を感じたとのことだった。Tちゃんの場合は私と違って、「対象を保護したいからそれを知る」のではなく、「対象を愛しているからそれと接している」からなのだと思う。
出した答えは園芸の会社で働くこと。
導き出したのは、答えなのか、過程なのか、それは聞いていないのでわからないけれど、その道を明らかにすることは、とても大変な作業なんだろうなぁと思う。




