安西篤子「柴田勝家」感想 | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

1月22日、BSプレミアム英雄たちの選択「秀吉・天下争奪の山城合戦~賤ケ岳の戦い~」を見ていましたら、柴田勝家を思い出し、再度、安西篤子「柴田勝家」を読み返しました。

放送自体は、本能寺の変のあと、織田家の跡目相続に端を発した羽柴秀吉と柴田勝家の合戦・賤ヶ岳の戦いを秀吉の戦略側にたち褒めたたえていました。

自分は、猛将だか武骨で世渡りが下手で豪快に散っていった柴田勝家が好きです。

この本は、そんな柴田勝家の姿を教えてくれます。

本の裏の説明には、以下の事が書かれています。

「「鬼柴田」「瓶割り柴田」と武勇で名高い柴田勝家は、主君信長の覇業を支え続けた織田家第一の宿老である。

戦場では軍団屈指の猛将として軍功数知れず、北の庄城主となっては北陸経営に手腕を発揮した。

前田利家など同僚に「おやじ殿」と慕われる厚き人望までも備えた勝家が、豊臣秀吉に敗れたのはいったい何故なのか?希代の「闘将」の知られざる生涯を描く。」とあります。

本の内容は、織田信秀の葬儀の有名なシーンから始まります。勝家は、弟信行に仕えていましたが信行が謀反、自刃して次に信長に仕えます。桶狭間の奇襲による今川義元を打ち取ったり、美濃の斎藤龍興にてこずったりします。

信長包囲網の中、長光寺城を守っていた時に六角勢に攻められ、遂に水がなくなり、最後反撃に出るとき、水瓶めをすべて割り不退転で臨み勝利しました。「瓶割り柴田」と呼ばれるようになりました。

その後、浅井・朝倉を滅ぼし、長篠の戦で武田勝頼に圧勝。信長は、これまでの軍功を評価し越前一国を勝家に委ねました。

その後、本能寺の変により、信長が自害し、山崎の戦いで秀吉が明智軍に勝利し、清州会議で織田家領土の再配分を決めます。そして妻がいなかった勝家は、お市の方(前浅井長政の妻)を正室として迎え入れたのでした。

そして、賤ケ岳戦いの戦いで、前田利家の遁走と佐久間盛政の命令違反により、勝家が秀吉に敗れてしまいます。

最後、北ノ庄城で家臣に向かって「わしに従い死ぬことはない。生命を惜しむものは去ってもかまわぬぞ」、外の羽柴軍にし「おのれの腹の切りざまを後の手本とするがよい」と腹を切り潔く散ったのでした。殉死する家臣は、80人余りに及びました。

辞世の句

お市の方「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜に 別れを誘う ほととぎすかな」

「そうでなくとも,臥して眠る頃合いなのに,(短い)夏の夜に別れ(死出の旅路に出て,この世や夫達と別れる事)を誘う様に鳴くほととぎすである事よ」

勝家「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」

夏の夜のようにはかない物(人生)だったが、僕たちの生きた証しとして、この名を高めてくれよ!ほととぎす 」

なお、ホトトギスは、黄泉の国、あの世に導く鳥っていう意味だそうです。

猛将として名をはせた勝家は、「戦いの中で命を終える事」が望みであり、終わりの時を自分の城で

潔く散っていきました。多くの未練を残して死んだ秀吉に比べると豪快な散りざまといえると思いました。

最後までご覧になりありがとうございます。

 

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