英雄たちの選択「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」感想 | リタイアライフのつぶやき

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65才でサラリーマン生活からリタイア。さて、これから何をしていこうか。ブログでつぶやきながら日常生活を報告。参考になれば幸いです。

9月11日、NHK英雄たちの選択「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」が放送されていました。

もともと、吉備真備には、興味をもっていましたので、今回、取り上げられるという事で楽しみにしていました。(但し2018.12.31の再放送でした)

吉備真備に関しましては、今から9年前の2010年にNHK古代史ペシャル「大仏開眼」で吉備真備が

主人公で、孝謙天皇、藤原仲麻呂の3人を軸にしたドラマでした。気に入っていたので

DVDに録画してありました。今回、再度見ましたが面白かったです。

「英雄たちの選択」の番組紹介は、以下の通りです。

「奈良時代、度重なる 左遷にめげず、しまいには、右大臣まで出世した人物がいる。吉備真備(きびのまきび)である。波乱万丈の真備の人生の秘密をたどる。」

「西日本豪雨で被害を受けた岡山県の「真備町」。 ここが、吉備真備ゆかりの地である。真備は、20年近く唐に渡った学者としてスタートし、帰国後、歴代の天皇に仕えた。

ところが、真備の前に立ちはだかったのが、藤原一族の俊才・藤原仲麻呂である。
仲麻呂は、真備を九州の筑前そして肥前へと左遷を命ずる。

真備はなぜたび重なる左遷にめげず、右大臣に上り詰めることができたのか? その真相に迫る。」

とあります。

簡単な履歴は、以下の通りになります。

「716年、遣唐留学生となり、唐にて学ぶこと18年、735年帰路。唐では、経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学ぶ。

帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て急速に昇進する。橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。740年には、藤原広嗣が真備と玄昉を除かんとして大宰府で反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。

743年に孝謙天皇が即位して以降、藤原仲麻呂が実権を握り、真備や玄昉、諸兄と対立する。真備は、750年、筑前守、次いで肥前守に左遷される。さらに翌年の751年には遣唐副使に任命され、唐へ。753年に、鑑真と共に無事に帰朝する。

帰朝後も中央政界での活躍は許されず、九州(太宰府)に下向する。

764年、東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した 藤原仲麻呂の乱において、追討軍を指揮して鎮圧し、仲麻呂は戦死した。称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、弓削道鏡、光仁天皇に仕える。

775年薨去。享年80。最終官位は正二位前右大臣。」

凄いのは、中国(唐)で活躍した日本人は、吉備真備と阿部仲麻呂の二人だけです。

中国に記念碑がありります。↓(中国西安中心部)

また、学者から立身して大臣にまでなったのも、吉備真備と菅原道真のみです。

天皇5代に仕えました。↓

一番凄いのは、72才で右大臣になって活躍したという事です。

調べますと奈良時代の平均寿命は、28~33才です。

右大臣は、行政最高責任者(左大臣がいないとき)または左大臣の補佐ということになり、

相当な地位です。

でも何と言っても2度の左遷と唐への派遣に耐えて右大臣に上り詰めた事です。

2回唐に行き無事に帰ってこれたという運の強さもあったと思います。

重宝がられたのは、中国の最先端の技術、経書と史書の知識等どうしても必要なものばかり

習得していたからだと思います。

天皇家の妃の送り込みを蘇我氏から変えた藤原氏は、聖武天皇より藤原の血が入ることになり権力を

強めていき、吉備真備は、嫌がらせを受けることになります。

しかし、左遷に挫けず現地でベストを尽くします。

そして、最後、藤原仲麻呂を倒します。

吉備真備という超人的な人がこの時代で活躍されていることを知りました。

倉敷市真備町の地名は、郷土の偉人吉備真備が生まれたところとしてつけられたものだと

わかりました。

最後までご覧になりありがとうございます。

 

 

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