わたしは人類 | 天然石ジュエリーのCanecryのブログ

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20世紀の末より栄光あるネットジャンキーであったわたくしが、インターネットをあまり使わなくなって数年がたった。

まぁ、ネットを使って商売をしているので、ネットを使わなくなったと謂うのはいささか語弊があるかもしれない。より詳しく申し上げると、仕事以外でネットをあまり使わなくなった、と、こうである。

ずいぶん前からテレビからも離れてしまっているので、情報収集の手段が殆どなくなってしまった。自然災害(伝染病とか地震とか台風とか)の場合はネットを活用して情報を収集するが、一時的なものである。ちょっと前までコロナウイルスの情報はよく見ていたが、先月くらいからどうでもよくなって見ていない。

コロナウイルスに関して自分が出来ることは、『手洗い』『マスク』『人ごみは避ける』の3点のみ。その他にできることはないので、これ以上の情報収集には意味がないのだ。どこそこの都道府県で何人感染したとか、どっかの学者がなんか言ったとか、知ったところでどうにもならない。「ふーん、そうなんだ」で、終りである。そういうのを見るたびにいちいち「ふーん、そうなんだ」とか考えるのも疲れる。

長期政権だかの総理大臣が辞めた(辞める?)そうだが、だからなんだというのだろう。そもそも、政治にしたって知ったところであまり意味はないように感じる。『大切な1票!』とか『我々の税金!』とか宣う方がおられるが、1票は数字の1に過ぎないし、国家予算に対して大した税金なんか収めちゃいない。国家に対してそれほどの権利がわたくしにあるとは思えないし、個人にそんな過大な権利がある!とか思ってる奴はただの勘違い野郎である。勘違い野郎になるのはカッコ悪い。1はあくまで1なのだ。

わたくしは民主主義も個人の権利も信じていない。政治制度として存在しているそれらは、そういう機能を有しているかのように見せかけるが、そんなものはまやかしだ。常に集団は個人に勝利し、少数派は虐げられる。人間は常に自分と周りの利益を第一に考え、自らの利を遠ざける者を虐げる性質があるのだ。見せかけだけはいくらか変わったが、根本は変わらない。なぜならばそれがサピエンスという生物種の本能だからである。

わたくしがインターネットから遠ざかったのも、ネットの匿名性の作用で、人類という排他的な種の本能がむき出しになっているのを見たくなくなったからである。ニュースサイトは報道という名の悪口に溢れ、SNSでは些細な意見の行き違いで罵り合いだ。垂れ流される情報のスープの味付けは悪意のスパイスが効きすぎていて、わたしの舌には刺激が強すぎる。

興味深いことに、インターネットという世界をつなげる文明の利器は、人類の原始的本能をむき出しにてしまった。原始的な感情は知性を圧倒し、文明に乗って拡散する。そしてその悪意のスープを飲み続けると、なぜだか自分まで他者に対して批判的なものの見方をするようになっていく。

何かの情報を目にした時に、それを批判したり反対意見を言おうとしている自分に気づくことはないだろうか。何か読むと意見を言いたくなるのだ。しかも大抵ネガティブな見解で、よくよく考えてみれば、自分にそんなことを言う権利なんかない。芸能人が不倫したとか、どこかで誰かが他の誰かのせいで不愉快な目にあったとか、そういうものは個人の問題であり、第三者が口を挟んで好き放題言ってよいことではない。神様ですら人間を裁くときにはその者が死ぬまでお待ちになる。

他人を裁く権利などもってないし、個人の感想を世間の常識のように言う見識もない人々が、ストレス解消のために好き放題言って隙あらば他者を貶めて悦に浸る場所、それが現在のインターネットである。そして、これが人類の文明である。実に立派なものだ。

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では、インターネットを使わずにどうやって情報を収集しているかというと、主に書籍である。本だ。図書館は近くにあるし、今ではアマゾン(インターネットですね)で好きな本が好きな時に買える。SNSやニュースサイトはあまり活用しなくなったが、やはりネットは便利だ。

わたしは今までネットに費やしていた時間を、『生活の質の向上』に使うことにした。PCの前に座ったり、ソファーでスマートフォンをポチポチする時間を、料理に使ったり、本を読んだり、家事を丁寧にこなしたり、運動したりして過ごす。楽器の腕前も向上した。他人の悪意にさらされる心配はないし、意に反して他人を不愉快にすることもない。その気になればネット以外にやることはいくらでもあるのだ。

『質の高い生活』をネットで検索しても、それは手に入らない。何かを悪者にしてネットで文句をいっても同様だ。スマートフォンを置いて、なにごとも実践し、仕事を真面目にこなし、居心地のよい空間で楽しく暮らすのが、わたしの人類としての役割である。