わたしが今更言うまでもないだろうが、ときと共に人は変わるものである。
10代、20代、30代と、月日が流れるにつれ主義や思想は刻々と移り変わる。それは日々においても同じことだ。昨日はこう思っていたが、今日は違う。今日はこう考えていたが、明日はまた違った出来事が起きて考えが変わるかもしれない。
一生を通じて一貫した思想を持ち続けている人間などは稀だ。
3歳の頃にいつもベッドで一緒に寝ていたヌイグルミと40歳になってまで一緒に寝る人間など居ない。つまり『変化』とは日常にありふれた当然のものであり、『変化』こそが正常なのだ、と、断言できる。それを拒むということは、即ち己の人間性を否定することと同義である。子供の頃に一緒に遊んだヌイグルミやリカちゃん人形、シルバニア・ファミリーのうさぎちゃんは今、手元にない。どこかに消え失せてしまった。
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学生時代は夏の海が嫌いだった。
中学校のつまらない朝礼では、校庭のありんこの数を数えて制服の一部であるローファーで踏み潰した。スクールカーストの弱者であったわたしが、さらに弱い小さな生物を、靴のカカトで踏み潰す。今となっては笑い話だが、当時のわたしはそう謂った陰湿な属性でもってして自己のアイデンティティを確立させていたといっても過言ではない。つまりは『自分が弱者である』という真実を認めることができなかったのだ。幼い、そしてセンチメンタルな子供の感情だ。10代の多感な時期を弱者として過ごした者であれば、わたしのその心理状態を理解できるだろう。
『なつやすみ』なんか大嫌いだった。ロクに友達もいないんだから当然だ。遊ぶ相手なんかいないのだ。
終業式の日のクラスメートは「みんなで海に行って海水浴しよう」とか教室各地の津々浦々で相談していたものだが、その輪に入る対人スキルを持ち合わせていないわたしはいつだって蚊帳の外だ。普段の教室の休み時間と同様にその時間をやり過ごすだけだ。
海水浴?なにそれ?
大体、海なんかマンチョーだのカンチョーだの潮の満ち引きだの、どっかのSMクラブか不純異性交遊かってな感情がわたしの心を支配していた。肌の露出が多いビキニだのなんだのって、どこの国のポルノだよ!、と本気で思っていた。バカだね。
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そんなわたしだが、大人になって、一人で海にくることを覚えてから、海が大好きになった。
海には一人でいく。友達どーしで海水浴?ファック!!!

ビーチで仲間内でギャーギャー騒ぐ必要なんかない。ひとりで綺麗な海を眺めるだけで良いのである。
好きな飲み物を飲めばいいのさ。

遊びは遊びだよ。

昔は海なんか嫌いだった。『海へいくつもりじゃなかった』。でもなんか一人歩いて向かう海は悪くない。
これも『変化』だ。自分の中の変化は受け入れねばね。
以上。