時の変遷とは奇妙なもので、昔はアタリマエだった結婚して子供を作って専業主婦として家庭に入るという行為が今では難しくなり、逆にわたしが子供の頃にはお誕生日とかにしか食べられなかった(ウチがビンボーだっただけかもしれないが)ケーキとかお寿司とかのご馳走(当時)が今では簡単に口にできるようになっている。
科学技術が発達して、工業化も進み、生産性は向上していることには間違いがないにも関わらず、サラリーマンの労働時間やノルマは減るどころか上昇し、ブラック企業なんてものがこの世に存在しているのは如何なる事態なのだろうか。高い位置から人類を見下ろせば、人類全部がそれなりの労働で食べていけるだけの物資と工業技術がこの世界にはすでに存在しているにも拘わらず、だ。
わたしは共産主義者でもないし、『富を分け与えろ!』等と謂う世迷い事なんか幻想だと思っている。『努力した者が報われる社会』は素晴らしい。だが、それだけか?
確かに昔から比べれば『物質的に豊か』にはなった。お寿司でもケーキでも昔は高級品とされていたものがコンビニで安く買える。クレジット・カードで後払いにすることで大抵のモノは手に入る。銀行ローンで家だってクルマだって支払いは先延ばしにできる。
30歳のサラリーマンがマンションを35年ローンで買ったとしよう。しかし、それをやってしまうとその為に働く事になる。未来の自分に責任を押し付けている格好だ。わたしはその形態は『分不相応』であると感じる。いわば『幸福の前借り』を行っているわけだ。彼が35年後にローンを払い終わる頃には65歳になっており、老朽化した鉄筋コンクリートのハチの巣みたいな集合住宅が残る。その為に働く。それでいいのか。
もちろん、それが悪いことだと断じる権利は、わたしには無い。幸福の定義は人それぞれだ。愛する妻と子供の為に、ローンで家を買い、その生活を守るために働く。誠に結構な事ではないか。
だが、待てよ?その、妻と子供の幸せの為に働くお父さんというマイホーム主義を幸せの形と謂うイメージで世に広めたのはダレダ?クレジット・カードでスマートにお買い物がカッコイイというイメージを世に広めたのはダレダ?『幸福の前借り』は本当にそれで幸せなのか?テレビコマーシャルやらの洗脳でそれを植え付けられたに過ぎないのではないのか?
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わたしの生活スタイルは『なるべくモノを買わない、捨てない』、と、こうだ。いつもニコニコ現金払いでマイホームも手に入れた(クソ田舎だが)。世間様では『断捨離』等と言う行為があるようだが、手に入れなければ捨てる必要などない。買っては捨て、買っては捨ての消費行為が正義とされている社会は誰の為のモノなのか、誰が我々にそうさせようとしているのか、立ち止まって考える必要がある。
一人のニンゲンが一生の間に得られる『幸福の量』みたいなものは、太古の昔から変わっておらず、モノを手に入れる幸福、家族と笑って楽しく生活できる幸福、は、質は違えど、同一のモノだ。
しかし、現代人と謂うのは誠に奇妙なもので、どちらかの幸福のみを求めたがる。『貧乏でも家族みんなで笑える幸福』『金持ちになって高級車乗り回す幸福』と、極論すると二種類しかない。『キャリア・ウーマン』か『パート』か、『シンデレラ』か『三丁目の夕日』か、みたいなもんだ。著しくバランスに欠いている。
『貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』
欲を捨てよ、とは言わない。しかし、足りるを知ることは重要だ。
指は10本しかない。それ以上の数の指輪を持っていても無意味である。
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そんなわけで、新商品です!
NEW! ピンク・オパールのリング [ショップページ]

まぁ、新商品、指輪だけどな!