藤原定家は、いろんな梅の和歌を詠んでいます。


梅花こずえをなべてふく風に

  そらさへ匂ふはるのあけぼの

(梅の花の梢に、おしなべて吹く風に、空さえ香るように感じる、春の曙。)


(治承5(1181)年、定家20歳の時の歌、『初学百首』より)




なかなかによもににほへる梅花

  たづねぞわぶる夜半(よは)の木のもと

(あちらこちらに梅の花の香りが漂っている。歩き訪ねて思いが乱れる、夜中の梅の木の下で。)


(同上)




梅の花したゆく水のかげみれば

  匂ひは袖にまづうつりけり

(水面に映った梅の花。その香りの方は袖に移った。)


(文治2(1186)年、定家25歳の時の歌、『二見浦百首』より)


             梅の絵




藤原定家には、後白河法皇の皇女で歌人の式子内親王と、恋仲だったのではないかとする説があります。そのことに関する記事↓

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その式子内親王も梅の和歌を詠んでいます。


色つぼむ梅の木の間の夕月夜

      春の光を見せそむるかな

(色づき始めた梅の花のつぼみ、その木の間から見える夕方の月。そろそろ春の光を見せ始めるのね。)


(A百首 春 三 より)




ながめつる今日は昔になりぬとも

     軒端の梅よ我れを忘るな

(眺めている今日が昔になったとしても、軒端の梅よ、私を忘れないでおくれ。)


(正治2(1200)年、式子52歳の時(亡くなる直前)の歌。『正治初度百首』より)



「軒端の梅」があった式子の屋敷は、式子が父後白河から相続し、長い間、関白九条兼実に占有されていた「大炊殿(おおいどの)」のことと思われます。



「ながめつる」の歌は、定家の次の歌「我のみや」に呼応していると、馬場あき子氏が挙げています。


春物ごしにあひたる人の、梅の花を折らせていりにける、又の年、おなじ所にて


心からあくがれそめし花の香になほもの思ふはるのあけぼの

  又

我のみやのちもしのばむ梅の花

にほふ軒端の春の夜の月

(梅の香りのようなあなたの美しさに、心から憧れはじめてからというもの、物思いに沈んでいます、春の曙に。

  又

私だけがのちのちまで偲ぶことになるのでしょうか。梅の花の香りが漂っていた、あの軒端の春の夜の月を。)


(『拾遺愚草』下 恋 より)



確かに、先に亡くなってしまった式子内親王を、藤原定家が偲んでいる歌ととれるような……。



梅の花の和歌には、まだ寒い中で、春を待ち遠しく想う気持ちが詠まれていて、爽やかな雰囲気が伝わってきます。



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藤原定家と式子内親王の小説を出版しています🍁

ぜひ、読んでみてくださいね(◠‿・)—☆


〈『われのみ知りて』内容紹介より〉

どうして、あなたはいつも、自分から孤独になる道を選ぶのですか?」――平安時代、歌人として、そして女人として、想いを寄せてきた相手に藤原定家は思った。その相手とは、後白河院皇女の式子内親王。式子の元賀茂斎院という特殊な立場、弟以仁王の悲劇、数々の不幸な出来事。定家が式子に魅かれるのは、憧れゆえか、それとも同情ゆえか?


『小倉百人一首』や『新古今和歌集』などを編んだ、平安時代末期・鎌倉時代初期の歌人・藤原定家。彼の想い人は、「玉の緒よ絶えなば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という有名な和歌を詠んだ孤高の歌人・式子内親王だった。後世、能にも描かれることにもなった二人の切ない恋とは、一体どのようなものだったのだろうか――? 源平争乱――激動の歴史の中で繰り広げられた二人の恋模様を、鮮烈に描き出す! 長編歴史小説。

【目次】
定家葛(ていかかずら)
明月片雲無し
薫物馨香芬馥(たきものけいかうふんぷく)たり
御弾箏の響き
波の底にも
殿上(てんじょう)
松浦宮(まつらのみや)物語
呪詛の噂
その黒髪のすぢごとに
朽ちし斧(おの)の柄
鵺(ぬえ)の声
玉の緒よ
這(は)ひまとはるるや定家葛



 

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 他にも、壮年期の藤原定家が(文を通じて)和歌を教えていた鎌倉三代将軍源実朝とその妻坊門信子を描いた『雪は降りつつ』、『平家物語』「横笛」の章に出てくる斎藤時頼(滝口入道)と横笛を描いた『梓弓引く頃に』も出版しています。
 
 


 

 

 

 
 
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