ワールドカップを観戦していると、
「みんな空の下だなぁ」
って、思う。
ひとつのテーマに向かって、
どこにいても、
どの時間帯にあっても、
息をのんで、
或いは、
大騒ぎをして、
スポーツマンシップに思いを巡らせて。
「国」という、ひとつのアイデンティティの拠り所があって、
サッカーというテーマが用意されているから、
ある種の「同じステージ」で、会話ができる。共有できる。
あちこちにいる人たちが、「同じステージ」に立てること、というのは、
案外、難しい。
多国籍企業で働いていたりすると、それもひとつのステージとして実感されて、
面白かったりするのだけれど、
それでも、small talkが難しかったりするのは、
例えば、見ているテレビ番組が異なるから、
とか、
子育ての環境が違うから、とか、
なかなか、同じステージに立つのは、難しかったりして、
さすれば、
壮大なテーマに関して、
同じステージに立とうとするのには、
それに繋がる諸々の小さなことの、
小さな差異が、
あまりに積み重なって、
やはり、
遠いのか?
耳によく聴く「地球市民」的な概念を、
実践するのは、
なかなか、難しいことであると思うのです。
地球環境の問題も、
戦争の問題も、
貧困や教育や人権や、
いろんな問題に、
もっと、
みんな、同じ、空の下、を、実感できるように、
なっていけたらいいのにな。
というわけで、
昨日は、ドイツ人クラスメイトのお家で、Germany v. Argentinaを観て、
(アルゼンチン応援組もいましたが)「ホーム」の4点勝利を見届け、
続いては、R子嬢宅で、スペイン勢に囲まれての、Spain v. Paraguay。
こっちも「ホーム」の1点勝利を見届け。
そんなことを、頭の片隅で考えていた。
いろんな国の人が、
国を離れて、働いて、
いろんな国の人と出会って、恋をしたり、仕事をしたり、お勉強したりして暮らしていて、
ひとつのテーマに寄り添うという空間に身を置いて、
この通じ合う何かを、
たくさんの人が感じられることが、
通じ合う明確なものを創ることになるのだと、
信じたいんだと、思いました。
「交流」という陳腐なことばにも、
それなりの効用があるのだと、
見直しているところなのです。
「頭」で考えることと、
「心」で感じることと。
「みんな空の下だなぁ」
って、思う。
ひとつのテーマに向かって、
どこにいても、
どの時間帯にあっても、
息をのんで、
或いは、
大騒ぎをして、
スポーツマンシップに思いを巡らせて。
「国」という、ひとつのアイデンティティの拠り所があって、
サッカーというテーマが用意されているから、
ある種の「同じステージ」で、会話ができる。共有できる。
あちこちにいる人たちが、「同じステージ」に立てること、というのは、
案外、難しい。
多国籍企業で働いていたりすると、それもひとつのステージとして実感されて、
面白かったりするのだけれど、
それでも、small talkが難しかったりするのは、
例えば、見ているテレビ番組が異なるから、
とか、
子育ての環境が違うから、とか、
なかなか、同じステージに立つのは、難しかったりして、
さすれば、
壮大なテーマに関して、
同じステージに立とうとするのには、
それに繋がる諸々の小さなことの、
小さな差異が、
あまりに積み重なって、
やはり、
遠いのか?
耳によく聴く「地球市民」的な概念を、
実践するのは、
なかなか、難しいことであると思うのです。
地球環境の問題も、
戦争の問題も、
貧困や教育や人権や、
いろんな問題に、
もっと、
みんな、同じ、空の下、を、実感できるように、
なっていけたらいいのにな。
というわけで、
昨日は、ドイツ人クラスメイトのお家で、Germany v. Argentinaを観て、
(アルゼンチン応援組もいましたが)「ホーム」の4点勝利を見届け、
続いては、R子嬢宅で、スペイン勢に囲まれての、Spain v. Paraguay。
こっちも「ホーム」の1点勝利を見届け。
そんなことを、頭の片隅で考えていた。
いろんな国の人が、
国を離れて、働いて、
いろんな国の人と出会って、恋をしたり、仕事をしたり、お勉強したりして暮らしていて、
ひとつのテーマに寄り添うという空間に身を置いて、
この通じ合う何かを、
たくさんの人が感じられることが、
通じ合う明確なものを創ることになるのだと、
信じたいんだと、思いました。
「交流」という陳腐なことばにも、
それなりの効用があるのだと、
見直しているところなのです。
「頭」で考えることと、
「心」で感じることと。
