VOGUE NIPPONの飯田美穂子さんの記事を読んでいたら、
シンガーのアレサ・フランクリンさんと、
元アメリカ国務長官コンドリーザ・ライスさんのデュエットが、という情報があったので、
早速、見てみる。
ライスさんがピアノが達者だというのは、
前に、新書で『ヒラリーとライス アメリカを動かす女たちの素顔』
というのを読んで興味を持ったのですが、
聴いたのは意外と初めてかも。
といっても、あんまり演奏部分は入っていませんが。
わたしには、
ブッシュの右腕だった彼女が、
民主党支持のアレサと競演することについて、リポーターに質問されたのに対し、
We are all Americans,
President Obama is my president!
と、応えたのが印象的でした。
アメリカって、そういう国だよなぁ、と思う。
何かの本で、
アメリカは、国というよりも、Associationであり、Corporationのようである、
と書いてあったのは、
本当に説得力がある。
もちろん、Obamaが、そういう枠組み(ひとつのアメリカ)を、
近年、国民に再認識させようとしているように、
それでも、その意識が薄れていることもあるのだろうけれど、
ヨーロッパの国々や、日本のように、
初めからそこにあって、
伝統といわれるもやっとしたものがあったりする国には、ない、
「何か(Cause)のために集まっているんだ」
という感覚。
創業者がはっきりしている企業の、企業文化のようなものが、
流れていて、
内部で対立があったとしても、
大局では、大きなひとつの組織として、外に立ち向かう感じ。
そのバランスに、
なんだかんだ言って、
世界は憧れているのじゃないかと思う。
なんだかんだ言って、ですよ。
それに引き換え、
日本はどうだろう?
内と外を行き来する自由な視点を以て、
それでも、
自分たちを高める努力をしているのか?
わたしには、
内にいれば内のことしか見ず、
外にでれば外のものになってしまい、
その視点の交わるところが、
存在しないのじゃないかと思われてならない。
そして、内外の交流がないだけじゃなく、
或いは、だからこそ、
内側の団結もない、んじゃないかと、
疑っている。
新聞の見出しとか
見ると悲しくなることが多くて、
困る。
例えば、読売新聞の「民主大敗」というテーマの記事とか。
客観性を「ぶる」ことと、
社会のため、国のため(愛国心、とかそういうのでなく、
わたしたちが生きる基盤としての、国として)の
視点をもって書くということは、
違うのじゃないかと、
感じるのだけれど、
そういうロジックは、通用しないのだろうか?
そういうロジックで、
成り立っていない世界なのだろうなと、
こちらも突き放してみるしかないことが、
これまた、寂しい。