昨日、久しぶりにお出かけしてたんですけども。

正確にいうと、
趣向を変えて、出先で勉強してたんですね。


そしたら、変なおじさんんにナンパされました。


「Are you Chinese?
 No, humm, Japanese?」


ええ、日本人ですけど、何か?シラー


何でも、仕事で中国語を学ぶ必要があって、
中国人の(ガール)フレンドを探しているらしい。


ギリシア人のおじさん。


「結婚する前は日本人の女の子と付き合ってたんだよー。
 ヒロコっていうんだよー。
 僕はアジアンガールズが大好きだからさー!」


なんて正直なおじさん宇宙人


世の中には、一定数(相当数?)の「アジアンガールズ好き」な非アジアンがいることは、
海外在住歴やら渡航歴やらがある日本人女子なら、大抵気づいているでしょうが、
(そして、いい思いをしている人もいるであろう)
そしてそれは、「犬ならダックスフンドー!」みたいな、犬種的な感覚と同様であると思うので、
別に…おとめ座
という感じでもあるが、
それをないことと装って近づいて来る人も結構多いので、
このおじさんの明るい宣言は、かなり面白かった。


「日本に行きたいし、日本語も好きなんだけどねー…
 やっぱりさー、中国語やんなきゃいけない感じでねー」

と。


ふむ、

わかる、
わかるぞ。


わたしもフランス語大好きで、
未だに諦め悪く、気が向くと、ぱらぱら触れたりしているのだけど
(成長は…あまりしてないけど…しょぼん
そんな時間があったら、というか、
次は、中国語をやった方がいいんじゃないか、
フランス語「なんか」やっているよりも、
中国語勉強した方がいいんじゃないか、と、
「好き」と「実用」の狭間で揺れているわけであります。


というような話から、
結局、そのおじさんと、なぜか1時間くらい話し込んでしまったわけなのだが、


国の影響力が下がると、
海外でのモテ指数も下がるのかもしらんなぁと、
思ったりしました、日本女子よ。


だって、東京(日本)についていけるぜ、いえーい!
という便乗感が、なくなってしまうからなぁ…

現に、
海外メディアの支局とかも東京から撤退してたりするし…


北京か?上海か?広州か?


むー


そうなると、

それでもやっぱり、フランス語やりたいんです、あたし。

という具合に、
よく分からない「好き」或いは、文化的な「好き」を高めていくことで
打ち勝つしかないわけですな。


実用性より趣味性というか。


だから!
ブランディングが必要なわけですな!


モテるには、ブランディングが必要なわけですな!目


9日の長崎市の平和宣言
広島市のそれに比べると、
いたってシンプルで、
事実、というか、直球ストレートに、
言いたいことを並べました、という、内容でしたね。


言いたいこと、言ってもらったなって
わたしも思いました。


歯切れが悪くない、というか。
言葉のあや、で終わらせていないというか。


メディアに露出しやすいタイミングだからこそ、
普段から再三言っている「当然のこと、だけれどもオフィシャルになりにくいこと」
を、この機会に改めて、
新聞記事に載せたり、電波に載せたりして、
「明文化」させよう、意志が感じられる内容だと思いました。


とりわけ、日本政府に対する長崎市民の見解を、
全国的(対外的)に、明らかにできたのは、成果なのでしょう。
それが狙いなのでしょう。
(長崎の平和宣言は、草稿を市民参加で作るということです。)


一方で。


あまりに当然のことを言い過ぎていて、
心が震えない、
というのも正直な感想であったりします。


これが難しいのだということを
事実と表現の境目をどこに創出するのかが問題だということを
勝手に、改めて感じているわけです。


「(うわべっぽく)心が震える必要があるのか?」


と言われてしまえばそれまでですが、
「そうだ、そうだ」
と賛同する「外の人」(この場合、長崎の外の人、とします)が一人でも増えるためには、
やはり、
演説を聞いた人が、
「そうだ、そうだ」
と、強く頷いて、例えば胸に手を当てたくなるような、
その行動の最終的な姿まで思い描けなくては、ならないのではないかと思うのです。


メーカーで言えば、
CMや雑誌やらで効果効能をうたったところで、
「ふーん」
となるところを
「言い過ぎじゃね?」
と思われずに、でも、
「で?」
とも思われずに、
「わたしこれが欲しいです」
と携帯メモに書き留める(そしてその後、お買い物かごに入れて貰う)ところまで
想像しているコミュニケーションなのかということ。


いや
市長さんの試みが、
市民の意識をまとめて、
そのとき目の前にいた、管さんに訴える、というのが最終目的なのであれば、
既に十分目的は達成しているのだとも、思います。


でも、
わたし や
わたしよりも関心のない、
「外」の人が、どのように感じるのか?



例えば、
アメリカの大統領選挙がコミュニケーション戦略の戦場である、というのは、
(平和の話をしているときに戦争関連ワードが出て来るのは遺憾だけれど、
結局、世の中は、武力を伴わなくとも、常に戦いなのであるということなのだと…)
既にわたしたちの広く知るところですが、
以前、『オバマ現象のカラクリ 共感の戦略コミュニケーション』という本を読んだときに、

オバマ現象のカラクリ 共感の戦略コミュニケーション(アスキー新書)/田中 愼一

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選挙期間中の、日々のコミュニケーションのひとつひとつにまで、
有権者のリアクションを反映させているというくだりを読んで、
驚愕したのでした。


例えば、
前日の討論会を受けて、翌日流す選挙広告の内容を急遽変えることにする。

そこまではいいです。

なんと、その広告の、一般視聴者の反応調査までやって、その上で流すというのです。
つまり、
討論会終わる→新しいキャンペーンVTRを複数案つくる→被験者に見せる
→勝ち抜いたものを、翌日流す、
というめまぐるしいサイクル…


これが、戦況を受けて、連日連夜続くわけです。


まさに、24時間、コミュニケーションのために、戦っているわけです。


どれだけ被験者プール抱えてるんだー!
どれだけクリエイティブチーム抱えてるんだー!
どれだけ戦略チーム抱えてるんだー!
と、
メーカーでCM1本作るときの大変さを想像しただけで、
その規模の凄まじさ、
お金のことや人材のことや…
選挙/政治PR・広告業界がアメリカで一大産業である理由が窺えますが、
本題は、
そこまで徹底的に、
「聴く人」の反応を探った上で、コミュニケーションしているということ、
或いは、
「聴く人」の反応を得られないコミュニケーションは、初めからしていないということ、
ですよね。


それでも、
勝ったり、負けたり、するわけです。


シビアです。


言いたいことを言う、というのともまた違う。

言いたいことを分かってもらうように言う。

そのための妥協は、妥協ではなく、
もはや前提条件であるという、考え方。


オバマさんの"YES, We Can"も、
すべての演説も。

そこにたどり着くまでに、「人が動かないから」という理由で、
切り捨てられている文字/情報が、
一体どれくらい、あるのだろう?


…そして、その裏にある、思いや情熱も、もちろん…


単に腕のいいスピーチライターがついている、というのではないのです。
コミュニケーションの組み立て方が、そもそも、
人の心を動かすように、そうでなければならないように、仕向けられている。



つまり、
いつだって、
目的を達成するためには、無垢でいられないのです。




その事実って…

正直、つらい。

できることなら、知りたくない事実。

できることなら、関わりたくない事実。


だれだって、
Genuineでありたいと
思うはずだから。


でも、
一度その仕組みを知ってしまった人は、
関わってしまった人は、
その責任を全うするしかないのだと、思う。


無垢を捨てても
達成したいことがあるのであれば。


平和と戦争の間にだって存在する、
こんなコミュニケーションの真実。


例えば
被爆者の証言、なんていうのがあるけれど
彼ら彼女らのコミュニケーションは、
無垢であってよいと思うのです。

それを
拡大させるのは
知っている人、関わっている人の、役割だと考える。


…多分、
わたしは、
知ってしまっているから、
そういうことの一端を
担わなくてはと思って、
無垢なコミュニケーションを発見すると
心が痛くなる。



言葉が目の前で死んで行くのを見るのは、
つらいのです。


市民と一緒にメッセージを作って、
それを外の人にどう感じてもらうかまで考える…
「平和宣言」では、
その必要はないかもしれません。

あくまで、市民の宣言だから。

思いの丈を述べれられる、大切な機会なのだとも思います。


でも、例えば、
そういう視点をもってみるのも、ひとつの方法だということです。


何かメッセージを作るときに、「外部」の評価に、晒してみる、という。


これが商業的だとか、計算的だとか思われるのもよくわかるし、
かわいくないのもわかるし、
荒んだ感じがするのも、わかる。


だけれど、
無垢を捨てて大義に向かって行くことも
ひとつの情熱の形であるのではないかとも、思うのです。

アイデンティティも、所詮は社会的に想像/創造されるもの。

とすれば
時流に乗ることとアイデンティティを守ることは、
相反しないはず。

むしろ
アイデンティティを創る作業は
流れの中で常に行われるものであるから

流れに乗る、
しかし同時に、
それをコントロールする方法を駆使するのが、
何かを達成するために、必要な、スペシャルな技術で、
その技術を使いこなせる人や国が、
新たな権力を持つのでしょう。


広島市ホームページの動画は…
Macでは見られなかった… がびーんガックリ

日本時間8:15に、ばっちり画面の前に居たのにー!!
Mac対策してください… ユニバーサルデザイン…


しかし、
その8:15に近づいて行く時間、というものを、ひとりで感じられたこと。

$Rollingcatの越境レポート。

Marie-Ange Guilleminotさんのアート作品を思い出した。
La montre blanche, 1999 (白い腕時計)


朝の8時15分
普段
何をしているだろう?

トイレしてる? 歯磨いてる?
まだ寝てる? 満員電車にゆられてる?
それとも流行の、朝活?

いい気分? 嫌な気分?

今日はどんな一日になるだろう?
…どんな一日に、しよう?


戦時下とはいえ
ある種の「日常」が流れていた
ものが
一瞬にして
止まる、その恐怖と虚無を。


例えば、この腕時計のように
(これ、コンセプトがとっても好き!
 文字盤が白くて、針も白くて、
 8:15にだけ黒い長針短針が描かれていて
 その時刻を指すとき
 文字盤が真っ白になる、というもの!)
毎日、
8時15分が消える、
ことまで
考えられなくても、
年に一回くらいは、想像するのがよい。

人間は、忘れがちだから。
頭でっかちだから。


(殆ど)オバマさんのNuclear free worldへの掛け声のお陰で
駐日大使が出席して
国連事務総長までやって来て、
イギリスやフランスのエラい人も来て、
BBCでもニュースになり、
メキシコ人のフラットメイトにも、

「今日は広島の日なんでしょ?メキシコのラジオで言ってた。」

と認識され、

長いものに巻かれて
それは
悪いことじゃなくって
必要なこと。


広島のアイデンティティが、
新しく創られる時流にあるということ。


最初に、秋葉市長が
オリンピックの話題に触れたときには、
ここでその話をするか…?

一瞬青ざめたが、
しかし
目をつぶっても、
世界が注目している瞬間を
Factに向き合う瞬間を
創ったことは
素晴らしいことだと思います。


甚だロジックの破綻した(とわたしは思っている)
"Obamajority"キャンペーンのように、
「時流と生きるのではなく 飲み込まれてしまった」ような
アイデンティティの創造と喪失を混同せず、
むしろ
今まで「内」にあって、秘めて、「外」に出せずにいたことを、
放出するタイミングであると捉えるべきであると思う。


外、というのは、
コミュニティの外、という意味で。



それにしても…
(話飛びますロケット



何でNHKは、
国連事務総長スピーチ前に、
(ローカル以外)中継を切り上げてゲゲゲの女房に切り替えたのか。


誰か知ってる人ー
教えてくださいー!


インターネットニュースで見る限りだけれど、
あまりに意味不明なので、
説明会見して欲しいくらいだと思うのはわたしだけ??



日本ではあったのかな、何かしらの見解が?


やっぱりNHKは、単に日本政府のナントカなのかなぁ。


広島を、切り離したいというか。
それは、
核政策、安全保障政策のために。


そうだとしたら
日本政府ともどもに、
時流に乗るも何も、
この先の、日本が進むべき道を考えていないというか、
アイデンティティのデザイン、
ブランドのデザイン、
それについて、あまりにストラテジーが無さ過ぎて、


正直… 
完全失望。。。


残念すぎる…むっ


わたしの危機感は、
世界という市場で
日本が
淘汰されてしまうのではないの?
ということです。


それは単純に、今日明日の問題というか、
中国を敵対的にして語られる経済力の問題や
北朝鮮を危険視して語られる軍事力の問題でなく

「存在意義」

という意味で、です。


どういう存在になりたいのか


…それが、「トップ」から見えて来ない不安です。


これが会社なら、
大問題だぜ!?


広島から今日を考えるとしたら
わたしはそういうこと考えてます。