$Rollingcatの越境レポート。

津軽弁で「えふりこき」とは
「見栄っ張り」の意、らしい。


朝7時に家を出て、
電車を乗り継いで14時間ぶっ通しの、津軽弾丸ツアーにて
太宰治を追いかけて感じた、ひとつのことは、
彼の生涯について回った、
「えふりこき」
の性質を探り来ること。

彼の身を滅ぼしたとも言えるのかもしれない、その性質が、
どのように
その時代や、土地や、文化に根差しているのかしらという
興味。


「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」


ヴェルレーヌのことばを引用した太宰の、
どこまでも続く平野の どこまでも寒い津軽の地で、
ひどく「セレブリティ」であった一族の、
「序列の低い(大兄弟の末の方であった)」立場で育った彼の、
(そしてもちろん、類い稀な「才能」を持った彼の)
背筋を伸ばし 洒落を決め込みつつも
背徳、拗ねた感情と、備わった甘えとが交錯する日々と。


『津軽』の一節に
「大人とは裏切られた青年の姿である」
とあり、
これは、人は当てにならない、という、
人に対して裏切られたということを指しているようだけれども、
その「人」には、実際、「自分」のことも含まれているのではないのかしら?


撰ばれてあることの自覚
自覚があるからこその恍惚と不安


撰ばれてあるということは
常に人との関わりがあり
その関係性の中で、
自分が一体何者であるのかということを考え続ける作業をしていたということで

元来、
人に興味があり 社会や世界に興味があり
それらを自分の内側から、外側から、
観察し、関わり込もうとした生き方。


人と関わること、裏切られても関わり続けること、
その人との関わり方における、
自分の「あるべき姿」を持ち続けること、そして、
自分自身にさえ、裏切られても、関わり続けること。


それらにおいてまったく妥協をしなかったから
他者にも
自分にも
見栄を張る(えふりこきである)ことに、
或いは「演じること」に、重要性を見出していたのだろうなと思う。


恐らく
自分を素直に生きるというのではなく
自分の与えられた生を生きるということを
忠実に実践した結果の行動として、
生きて、死んだのだろうなという感覚。


客観的すぎる


そこに

わたしはとてつもない共感を抱きつつ

ある意味、現代人としての「徹底的でない」「悲観的でない」要素をもってして、
…それはつまり、「自由」の裁量が広がる中で、いくつものネガティブにいえば「逃げ場」、
ポジティブにいえば「代替案」や「可能性」になるのかもしれないのですが…
彼の破滅的な結末を、軽蔑しながら、愛しむのだと思うのです。


そして、
見栄っ張りなことが
彼の生涯とその結末を誘因したとして、
一方で、学ぶというべきか、憧れるというべきか、
そういうものを強く感じたのです。


彼の姿勢が、
「理想の姿」「理想のあり方」を模索するための
ひとつの姿勢であるとすれば、
ただなんとなく
自分が「誰になる」というのでもなく、
「自分である」ということを大切にしよう、
「個性」を大事にしよう、
「ナンバーワンよりオンリーワン」
なんていう掛け声のもとに、
ただなんとなく
そこにあるモノやカネに流されて
結局は自分が誰であるのか分からないような
自由という名の、ぼんやりとした大海を泳ぐ現代人にとって
示唆することが大きいのだなと
改めて思い、

年間10万人も、太宰の生家(「斜陽館」)に訪れるというのだけれど
そういうものの断片を感じに行きたい人が、
案外に多いのかもしれないと思ったのでした。


ストーブ列車に揺られて帰る道に
見栄を張ることのつらさばかりでなく、
その美しさと、尊さのようなものを
感じたことに気づいた、
雪空の旅。
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先日、花巻・盛岡への日帰り小旅行にて
宮沢賢治に触れる。



宮沢賢治記念館にあった、彼の自筆メモが、
彼の思想の根底にあることで、
だからわたしは彼の作品が好きなのかもしれないと思った。



「詩は裸身にて 理論の至り得ぬ堺を探り来る
 そのこと決死のわざなり
 イデオロギー下に詩をなすは 直感粗雑の理論に屈したるなり」



理論の前に感性があるということ

理論には無限の正誤が生じうるが
感性には無限の自由のみが存在するということ



だけれども
人間は理論が好きだから


理論は時に
集団的に生きるわたしたちを効率的にまとめあげるのに
必要であるから。



そうであるとすれば
そうであるとしても


あなたの直感を わたしの直感を
感覚を取り戻すこと 見つめ直すこと 
頭で考えるのではない
 あるいは
頭で考えることを 心に取り戻したうえで 頭へ戻して行くその作業が
必要なのではないでしょうか。


とりわけ


理論の正誤が
わたしたちの生活に支障を来すようになってきたこの時代に。



例えば今、『ハーバード白熱教室』など、「正義とは何か」を説いている
政治・哲学者のMichael Sandel(マイケル・サンデル)さん
注目を集めているのも、多くの共感を呼んでいるのも、
市場主義というイデオロギーが、
世の中の、脳みそのすべてに入り込んで来たことの弊害が
顕著になってきたからだろう。


正義や道徳


といった「答えの無い」、無限で自由なキーワードは
事実、
「では、一体どうやってこの共同体を導くのか?
 運営していくのか?
 "判断"していくのか?」
という、criteriaに関する疑念を拭うことはできないけれど、

サンデルさんの議論にしても、
わたしたちが捉えるべき本質は、
全面的な正義や道徳の勝利を追求するのではなく、

その、賢治がいうところの、

「詩」であり
わたしたちの「裸身」であり

それらを
見つめる時間と
見つめる場所を
わたしたちの政治的思考や経済的活動の中に持つことができているのか?
ということだと思う。


理論と感性とを行き来することを
自然のこととして
行えるようになることが
この世界を変革していこうと、
「よりよく」していきたいとするときの、
ひとつの意志であり、実践であると思う。
東北新幹線のCMやポスターをよく見るよー、
と、
東京方面から言われる。


こちらじゃ…
あまり見ない
(そもそも駅を利用しない生活だし、
TVCMといえば、ローカルな結婚式場のものやパチンコ店のもので占められる現実…)



が、しかし、
東北新幹線の新青森駅までの全線開通は、
遂に来る12月4日。

ということで、ローカルな新聞では、
カウントダウンとともに、
イベントの案内や、各種観光プランの紹介、
これからの雪の季節に向けてのJRの対策など、
常に特集が組まれています。

今日の東奥日報には
初めて本格的に雪の降った昨日でも、
線路上の温水シャワー設備で、積雪対策はばっちり!
という自信みなぎる記事が掲載されていました。

(ロンドンの、ロンドン程度の積雪による交通事情の混乱を思えば… 
 立派な話ですな)



それにしても…
このCMシリーズは、なかなかに素敵です。

そして、まっきーの歌がぴったりだなぁ!

youtubeで一気に見たりして、
いい雰囲気が出ているなぁと思っています。


シリーズ最初の方に使われている「素直」は言うまでもなく名曲だけれど、
「開業篇」に流れている「林檎の花」、なんて素敵な曲でしょうか!

CMのための書き下ろしなのだそうです。
CD化されないのかなぁ?




CMから伝わるのは、全篇を通して、
東北らしい、
静かさと温もり。


騒音のしない感じ。
(もちろん、実際にはするんだけれど、雰囲気として、ですよ。)


敢えて言ってみるのであれば、
「口ごもるような」愛情とでもいうのでしょうか。


それから、
晴れているときは
春でも冬でも
抜けるような青い空と山々が
どこまでも広がっている自然の様子と、
それとは対象的な、土らしい、土臭さ。

泥臭さ。


これって来てみないと分からない空気感じゃないかなぁ。


CMの中で、三浦春馬くん演じる「トーキョー」が出て来るけれど、
(東京出身で、新青森駅に配属されるJRの若手社員という設定)
まっきーの歌声と合わせて、
トーキョーや都会的な何かと、青森とを、
直接ぶつけ合うこと、交差させることで、
青森の、その、「静かな匂い」を、現実味をもって沸き立たせている演出が、
憎いな、と思います。

きっと、「青森らしさ」という伝わりにくい何かを一方的に描くよりも、
効果的に伝わる気がする。


地方にいると
観光が、地元にとっていかに大きな資源であるか、
…それは、収入の面でもあり活力や気持ちの面でもあり…
ということが実感されることが多い。


だから
たくさんの人が乗ってくれたらいいなぁー、と
一瞬の東北人を気取って、思ったりするのです。


こういうイベントが
何だか他人事に思えないのがまた、面白い田舎暮らし。