$Rollingcatの越境レポート。

先日、花巻・盛岡への日帰り小旅行にて
宮沢賢治に触れる。



宮沢賢治記念館にあった、彼の自筆メモが、
彼の思想の根底にあることで、
だからわたしは彼の作品が好きなのかもしれないと思った。



「詩は裸身にて 理論の至り得ぬ堺を探り来る
 そのこと決死のわざなり
 イデオロギー下に詩をなすは 直感粗雑の理論に屈したるなり」



理論の前に感性があるということ

理論には無限の正誤が生じうるが
感性には無限の自由のみが存在するということ



だけれども
人間は理論が好きだから


理論は時に
集団的に生きるわたしたちを効率的にまとめあげるのに
必要であるから。



そうであるとすれば
そうであるとしても


あなたの直感を わたしの直感を
感覚を取り戻すこと 見つめ直すこと 
頭で考えるのではない
 あるいは
頭で考えることを 心に取り戻したうえで 頭へ戻して行くその作業が
必要なのではないでしょうか。


とりわけ


理論の正誤が
わたしたちの生活に支障を来すようになってきたこの時代に。



例えば今、『ハーバード白熱教室』など、「正義とは何か」を説いている
政治・哲学者のMichael Sandel(マイケル・サンデル)さん
注目を集めているのも、多くの共感を呼んでいるのも、
市場主義というイデオロギーが、
世の中の、脳みそのすべてに入り込んで来たことの弊害が
顕著になってきたからだろう。


正義や道徳


といった「答えの無い」、無限で自由なキーワードは
事実、
「では、一体どうやってこの共同体を導くのか?
 運営していくのか?
 "判断"していくのか?」
という、criteriaに関する疑念を拭うことはできないけれど、

サンデルさんの議論にしても、
わたしたちが捉えるべき本質は、
全面的な正義や道徳の勝利を追求するのではなく、

その、賢治がいうところの、

「詩」であり
わたしたちの「裸身」であり

それらを
見つめる時間と
見つめる場所を
わたしたちの政治的思考や経済的活動の中に持つことができているのか?
ということだと思う。


理論と感性とを行き来することを
自然のこととして
行えるようになることが
この世界を変革していこうと、
「よりよく」していきたいとするときの、
ひとつの意志であり、実践であると思う。