$Rollingcatの越境レポート。

おばあちゃんは
いつも食べ物をお仏壇にあげる。


そしておじいちゃんに話しかける。


「ほら 父さんたら 
 早くに死んじゃうから こんな美味しいものも食べられないのよ」
(標準語意訳。)


収穫したてのとうもろこしも
わたしのお土産も
いただきもののお中元もお歳暮も
作り立てのお汁粉も
初物のいちごも、
クリスマスケーキも。


自分が食べる前に 必ずお仏壇にあげる。


おじいちゃんが亡くなった時
わたしは中学1年生で
だからもう、すごく時間の経ったことではあるのだけれど
それ以降しばらくの
おばあちゃんの落ち込みぶりは目も当てられないような状況で


田舎にいて
このおばあちゃんを見ていると
夫婦って何かなとか
家族って何かなとか
考える。


おばあちゃんは
結婚式のその朝まで
おじいちゃんの顔を見たことがなかったそうで


現代っ子にしてみれば
信じられない話。


そういうのを
人権とか自由とか理性とか 
いろんなことばで括ることは可能だけれど


ことばで描写する「きっかけ」と裏腹に
ことばで括れない、特別な関係性が、
絶えることなくそこにあるのは確かで。


それは何なんだろうって考えるけれど
もちろん
おじいちゃんの性格がよかったとか
顔もよかったとか(なかなかのイケメンですよ)
そういうのはあると思うけれど


わたしはおばあちゃんと(亡くなった)おじいちゃんを見て思うのは
「自分」じゃなくて「他人(相手)」を想う気持ちが
常に優先していることなのかなと、いうことです。


それは生まれながらにして持っている彼らの才能なのか
そういう風に育てられたということなのか
そういうカルチャーが常に回りに存在していたということなのか


でもそうやって
自分が他人を尊重することが
他人の自分に対する信頼をつくり
他人の自分に対する信頼ということはつまり
自分の自分についての自信。


夫婦が
そういう自分とそういう他人の組み合わせで出来ているのだとしたら
その二人は
お互いの自分たちの存在自体にとって、
必要不可欠な「意味エネルギー」の源であって、
極端な話
アイデンティティ探しの人生はそれで完結するのかもしれない。


いや、それは極端だな。


でも、それでもやっぱり
アイデンティティ探しの大きなピースを埋めうる
きっと幸せな関係性になるのかもしれない。


恋愛してたって
恋愛の結果、結婚したって
醒めるもの(冷める、覚める?)がある現実の中で
それはきっと
自分>他人(相手)
の構図が
はっきりと自覚されるとき、なのじゃないかな。


自分を思うことで精一杯で
相手を思うことができないとか
相手を思うことが
自分をネガティブに思うことになる。


そういう結果を
ネガティブにエゴとは呼ばないし
呼べない自分もいる。
(”正当防衛”的なときもあれば、
 優先順位づけは、常に生きる上での選択でもあり。)
それでも、
他人を大切に思うことが 
自分に返って来る関係性を見出すことができたなら
ごく自然に
その道を歩くことができるのだろうなと
思ったり。


それって
幸せなんだろうなぁ。


みなさんやっぱり
そうなんですか?


わたしはさて
どうなんだろう?
$Rollingcatの越境レポート。

このところ
少しずつ雪が積もるようになって来ました。

この辺りは けっこう雪が積もるようで
本格的な降り始め後には
連日の雪かきで全身筋肉疲労なんだとか
ハハが脅すので
どうしようかな 
でも
手伝った方がいいよね うん 
「家事手伝い」だからな。


ネコの足は
おばあちゃんの家の近隣に住むネコの足で
いつも
おばあちゃんの家の前でうんちをするので
追い払おうと
おばあちゃんとその娘(ハハ)は必死なのだとかいうけれど
所詮 人間がネコに勝つことはできない。


だから
足跡を黙って見つめるか
或いは
芸術かもしれない
くらいに
思うべきである。


TSUTAYAが5枚1000円でレンタルしていると
興奮するのは
レンタルキャリアが浅いから
リーズナブルにレンタルできることの至福への興奮。
(学生の頃までは、レンタル業者は「怖い」から借りちゃだめだって
 そんな親の教育。
 なんだかよくわからないけど 
 友だちとズレてても守っている親の教えって
 結構あったりしますね?)

このチャンスを逃すまいと
何だか通いつめちゃって
でも
何借りていいんだか訳が分からなくなるところは
キャリアが浅いがゆえの
要領の悪さ。


とりあえずAKBもUK Rockも
何だか名前を聞いたことがないけれど店員さんお薦めってやつを
借りて
支離滅裂の統一感という
わたしなりの気持ち悪い気持ちよさで帰路についたり。


日経WOMANの「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」の見出しに
少しばかりの過去を思い出して
立ち読みしたら
案外 発奮もせず
かといって
「森ガール」の表紙を手にとる気にもならない。


non-noの表紙が嵐だったけれど
non-noを買う世代でももはやない。
(大野くんは前髪があるとカワイイ。)


ところで日経WOMANは、
人のキャリアや結婚や出産がどうこう、という記事よりも
厚生労働省官僚・村木厚子さん(障害者郵便悪用事件の容疑者、その後無罪判決)の
インタビューの方が気になった。


「(拘留中には)自分の時間しかないから、
 (できないことに焦るよりも)
 今できること(睡眠をとる、とか、手紙を書く、とか)に集中して乗り越えた」


大部分うろ覚え、だけれど、
そんな内容で
もちろんわたしは、拘留とはほど遠い、
ハハの美味しいご飯と
暖かいお風呂とお部屋とに包まれた、
生温い生活をしているという
贅沢な自覚を持った上で、
物理的に
ここに閉じ込められていると仮定するのならば
感覚的には似ている部分もあるのだ。


帰国してしばらくの間続いた
何と戦うのでもない焦燥感と孤独感が
このところどこかへすっかりと消えたようで
わたしは犬と一緒に
ベッドに転がり
テレビを見る。


ただ
花を眺めたり
本を眺めたり
書を眺めたり
雪を眺めたりする。


ジタバタしない季節が
ひっそりと過ぎて行きます。


何だか今年は
あと10日ほどなんだって
そういう実感も
ないくらいに。
朝ご飯を食べていたら

カウカウカウ…
COWCOWCOWCOW…


(う、牛?)


じゃなくって
(それは単なるスペルの問題)


一体なんだー?


と思って、キッチンの窓から空を見上げたら


白鳥が隊列を成して、飛んで行きました。


この季節、朝に夕に、
空を横断する白鳥の群れを見ることができるのだそうです。


今のは、
朝飯前のお散歩か、はたまた、朝食後の腹ごなしか。


子どもの頃、
いつだか、
冬の青森に来て、
その時に、おじいちゃん・おばあちゃんと一緒に、
どこだか、
の、湖に、
白鳥を見に行ったことがあったなぁと思い出します。

彼らは、
人間が餌を上空に向かって投げると、
飛びながら、ぱくっと食べて飛んで行くのですが、
子どものわたしには、真っ直ぐ空に投げることが出来ず、
叔父たちが器用に飛ばしているのを見ては、
ちょっと残念な(悔しい)思いをしたなぁというのが、
鮮明に残っており。

負けず嫌いの記憶。
一丁前へのコンプレックス。


そんな
青森において、
冬の風物詩的な白鳥の飛来ですが、
昨今では、
鳥インフルエンザの問題で、
白鳥を観光するコースも随分と閑散としてしまったようです。


渡り鳥である彼らが
日本に来るまでの間に
一体どのような環境をくぐり抜け
どういうところで 
病気にかかるのか、
渡り鳥であるがゆえに
それを推し量るのは難しいのだろうな…と、素人的に感じつつ、
この数十年の中で、
旅するルートの環境が、
変わってしまったことは事実なのでしょう。


「冬の到来を告げるシンボル」として
白鳥は青森の県の鳥なのだそうだけれど、
気候や環境の変化を告げるシンボルに、
ーそれも、ネガティブな意味でー
なってしまったような
少し切ない気持ちで。


せっかく大人になって
きっと餌だって上手に投げられるけれど(きっと…)
白鳥を見に行こう!
というふうには、やはり気が進まないのです。

それでも、
大きな空を、
長い首を伸ばして、
一直線に進む、真っ白な彼らは、
変わらずに憧れの対象であるような
立派な姿をして、飛んでいきました。


人間のエゴにまみれていても。


それでわたしは、
自然と、人間との間にある距離を
なんとなく感じてしまったのです。