寮の入り口に、
蜘蛛がいるんです。

黄色に茶色の縞模様の、
ちょっと怖いガラの蜘蛛が…

最初は恐れていて、それで、ちょくちょくチェックしていたのですが、
ずっと同じところにいるし、
きっとわたしが来る前からそこにいたんだとしたら、
わたしがとやかくいう立場にないことも分かるので、
彼(か彼女か知らんが)を密かに「主(ぬし)」と呼び、
慕うことにしました。

イソジンの「かば」ばりに、
「ただいま」「いってきます」
を語りかける間柄です。
(2年前くらいのCMでしょうか?)

日本では、ああいう柄の蜘蛛みたことがないです。

スパイダーマンがなぜレッドとブルーの配色なのか?

文化によって、そのものを捉える色って、変わるはずです。

だって、そこに「見える」ものが、違うから。

蓄積されていく、異なる、経験。

大学1年生のときに文化学か何かのクラスで、
「日本の子どもに”リンゴ”を描かせると赤いリンゴを描くが、
フランスの子どもは、青リンゴ(みどりですが)を描く」
といったようなディスカッションをして、へぇと思った、その新鮮な気持ちを、
いつも思い出します。

(ちなみに、デザインというかマーケティングというか、
そういう世界では、”リンゴの色は何色?”と聞かれたらば、
”リンゴ色”と答えるのが、”賢い”答えです。。。)

今日も、主は健在でした。

わたしは、集中力が、あきまへん。
直訳したら、「馬鹿な時代」で、「お馬鹿」にしたら、
ん、島田ファミリーの興隆か?となりそうなんですが、
そうではなくて、
環境問題の、お話です。

今日は、The Royal Commonwealth Societyのイベントで、
The Age of Stupid (日本語はこちら
というフィルムを観て来ました。

9月22日に世界同時上映され(もちろん、日本でも!)、
ワールドプレミア会場のNew Yorkでは、元国連事務総長のコフィ・アナン氏なども
「グリーンカーペット」に登場するなど、大きな関心を集めている映画です。

2055年の世界から、
現在のわたしたちに、
「なぜ、手を打てるときに、打っておかなかったのか?」
と、悲痛に問いかける内容。

振り返れば、
あんなことも、こんなことも、
起こっていた、
それを知っていた、
知って知らずのふりをしていた、という、
「後悔」の予感を、観る人に与える映画。

2055年、生きていれば、わたしは75歳のおばあちゃんです。

後悔… 
したくないなと、思います。

人間は、
幸せに生きたいだけなんだけれど、
その幸せが、
何の価値に基づいていて、何の犠牲に基づいているのかという認識が、
あまりにも欠如しているというか、
あまりにも「知ることのできない」社会の構造になっているということが、
政府・企業・市民の連帯を生み出すことのできない理由にもなっているという、
問題と理解しました。

どの国の、どんな地域に生まれても、
「幸せになりたい」
気持ちは真摯で、ピュアです。

別に、それで何かに悪さをしようと思っているわけでなくて、
だからこそ、無自覚的な集団犯罪の様を呈しているということなのです。

ただそこに、生まれただけ。

それで、
毎日一生懸命働いて、お金を稼いで、
安全なものを食べたり、好きな服を着たり、
車に乗ったり、旅行をしたり。

どこが悪いのか?
なにが罪なのか?

先進国の自分がどれだけ制限すれば、
途上国の誰かがどれだけ得られるのか。

現在の自分がどれだけ制限すれば、
未来の誰かがどれだけ得られるのか。

幸せには適正値もないし、
最低も最高も、加減がない。

隣人を感じるのにも限界があるし、
ましてや数年後を想像するのにも限界がある。

それらはすべて、
目に見えないし、理解するのも、実感するのも、
とてもとても難しいことです。

そのジレンマに陥る、
陥って諦める。

しかしそこで、
諦めたら、ダメだ、ということだけ、
最低限、今のわたしたちにできることなんじゃないでしょうか。

ちょっとネガティブな見方かもしれないけれど、
そのジレンマに、「(観た人)全員が陥る」「受け入れる」ということが、
この映画の果たす役割なのかなと思います。

ポジティブな見方としては、
市民レベルで今できること、とか、
技術の革新をサポートする、とか、
もちろんいろいろありますが、
まずは、
一緒にジレンマに陥るところから、
一緒に拘束しあっていくところから、
環境問題への取り組みを始めることができる、
少なくとも市民レベルにおいては、
可能なんだと思います。

京都議定書のその後、は、12月のCOP15@コペンハーゲンで話し合われることに
なっているそうです。

COPは年に1回の開催だとすると、
2055年まで、1年1年めくっていくと、
チャンスはもう50回もないんです。

この件については「残り」を考えるマインドセットで、
(まだ50回ある、じゃなくって、もう50回しかない、という)
いくべきなんだと、思います。

さあ、
明日の自分は、何ができますか?

国会議員にメールを一本打ってみてはどうでしょうか、というのが、
上映会後のパネルディスカッションで起こった提案でした。

わたしが、いち学生の身分で考えていることは、
日本が「案外」、こういう動きに大人しいことが、
わたしにとってのもうひとつのジレンマであり、
悩みであり、
もっぱらの課題である、ということです。
専攻コースメンバーでの飲み会で、
親睦を深め、
あれやこれや、
食べものの話とかして、
でも、
結局行き着くところは、
Obama後の世界がどうなるのか否か。

Michel Jackson後の世界がどうなるのか否か。
(これは余談ですが… BC/ADみたいにBJとか出て来たら面白いという話で盛り上がり。
これは本当に面白いと思いませんか? 彼という人物が、人種や文化や何もかもを越えて、
作り出した世界という意味で。)

わたしはやっぱり、日本人として、
広島の話をいろいろと聞かれることがあり、
広島のHIROSHIMAとしての意味について、
自分なりに話をしてみたり。

広島は、
わたしにとっても、とても大切な場所です。

それは、
決して繰り返してはならない、愚かさの凝縮であると、思っているから。

そして、
幸か不幸か、
歴史を中和して、
広島と長崎を「受け入れるしかない」マインドをもった結果として、
今の「曖昧な」日本があるんだと思います。

曖昧なのは、悪いことなのか?

わたしはそうは思わない。

Yes, No,で区切れるほどに、
人間は単純ではないし、
つまり、
人間が作り出す世界は、単純ではないと思っているのです。

白黒はっきりなんて、
誰の目にも明らかな事実など、
存在しないのが事実。

憎しみとか、
敵対とか、
誰が悪いとか、間違っているとか、
そして、
「誰が正当なのか」。

そういう次元では語り尽くせない、
人類の行為の責任としての意味を、
広島は持っているのだと思うのです。

世界的に見れば、
非常にユニークであり、
かつ、ユニバーサルな場所。

どこの国の「戦争博物館」でも、
大抵は、その国の歴史観に基づいて、
史実が語られるわけだけれども、
少なくとも広島は、
戦勝国なのか戦敗国なのかという次元を、
完全に中和したうえで、
乗り越えたうえでの、
その存在の意味を伝えていると、
数年前に訪れたときに、
そう強く思ったのです。

例えば、
現地におけるその淡々とした「起こったこと」の伝え方については、
日本で育ったわたしには分かるメンタリティだけれども、
(アジア侵略、パールハーバー、すべてを含めて、その「見返り」だとしても、
正当化は決してしえないはずの人権への甚大な侵害を、受け入れているという意味で)
どれだけ貴重で、どれだけ、示唆になりうるかという可能性の自覚は、
日本の国内にも、
それほど大きくないような印象を持っています。

アメリカのプレッシャーとか、冷戦構造とか、
あるいは、日本がそもそも備えていた価値観なのかもしれないし、
とにかくいろいろな要素があったとしても、
そういう示唆を、示唆として受け入れるということは、
貴重なメンタリティである事実は変わりません。

貴重なんです。

人類という、大きな枠組みでの罪が、
この悲しみにつながりうるという事実を、
非常にニュートラルにコミュニケーションできるのは、
日本しかないのではないかと思うし、
ノーベル平和賞を受けたObamaさんがアメリカ大統領を務める、
この時代しかないのかもしれないと思う。

受け入れられる素地は、
以前よりもあるような気がする。

奇しくも、
アフガン戦争支援に反対する民主党・鳩山政権に内政が移ったこともあり、
「今しかできないこと」
「今を逃したら築けないもの」
としての、
日本の存在意義が、
軸を持てる時代になるのではないか。

今こそ、広島や長崎の意味を、
伝える、繋げるべきときなんだと、
本当に、心から、
確信しています。

どうしたらいいのか?

は、
心に続く。

酔っぱらいのブログでした。

空腹でワイン飲んだら、
一気に広島まで、浮遊してしまった。

おやすみなさい、
牛歩でも、
歩まないより、
いいと信じて。