子どもの頃から、図書館に入り浸るほどに本を読むのは好きだったけど、
全然、伝記、は読まなかった。

たぶん、(「伝記を読む」みたいな授業で選んだ)『キュリー夫人』以外、読まなかった。

学校なんかで、「たくさん伝記を読んでいる」みたいな子は、
何だか立派な雰囲気を醸し出している子たちだっだ気がするので、
わたしも伝記を読んでいれば、きっと、
欠けたまま大人になってしまったあれやこれやの素晴らしい要素が、
今頃すっかり身についていたかもしれない…
と、ちょっと後悔。

それに、「13歳のハローワーク」とか「キッザニア」とかみたいな役割も大いにあると、
(今は)わかるので、
そういうものを読んでいれば、職業的な選択肢や、生き方の選択肢も、
きっともっと広がっていたにちがいない…
と、かなり後悔。


なんで読まなかったのか。
…単純に、きっと表紙にそそられなかったからでしょう。


今もはっきり覚えてる、
何だかしみったれた(失礼!)雰囲気の似顔絵とかが表紙で。
東西の古めかしい装束、真面目な顔つき。
しかも、
名前が題名って。
名前が題名って、そこから何も想像できなかったっていうか、
ワクワクしなかったっていうか。

そんなのよりは、
何だかファンシーな装丁がしてある本とか、
イラストが素敵とか、
はたまた、『安寿と厨子王』みたいな謎めいた題名のもの(ストーリーを忘れてもなお、心に残る題名!)とか、
なんならいっそがっつりと現実的に、しかし未知の世界としての世界の動物図鑑とか、
そういうものにばかり目が、心が、寄っていたわけで。

はっきり実在したものより、
漠然としたものや普遍的なものを求めたという点は、
わたしの性格によるところなのか、
性格を作っていったのか、
それは、わかりません。


まぁ、結局こういうふわっとした人間に、
伝記は「カクカク」しすぎて向いていなかったのかも。


と、前置きが長くなりましたが、
子ども時代、伝記的な読み物はほとんど読まなかったけれど、
最近は、そういうものをたまに読むようになりました。


ひとつには、いわゆるエッセイ的なものも含めて、
単純に読みやすい、というのがある。
いろんな「合間」に、さらりと読める。

あと、まだ生きている人の場合だと、大抵は「元気に」、しかも、
ある程度のセレブリティとして輝かしく生きていることが自明なので、
悲劇的な結末とかを想定することなく、安心して読めるというのもある。

だんだんと問題が山積してくる日々において、
自分以外の他の人が、どんなことを感じ、考え、生きているのか、ということについて、
興味があったりもする。

そして、事実は小説より奇なり、で、
いろんなファンシーな読み物よりも、
リアルな人生の方が、刺激的だったりすることが、わかってきた。

そして何より、
「知っているような有名なその人」が、「どんな育ち方をしたのか」ということに、
とても関心がある!

これは、子育て的な観点で、とても面白い。

子育てに教科書はないし、正解はないし、
何より、経験は限られている。

自分の受けた愛情とか教育とか、置かれた環境くらいしか、
「通過点ではあるものの、ある一定の、”今のこんな感じの自分”という結末」
に繋がっていることは知ることができなくって、
例えば、とても仲のよい友人(という「ある一定の結末」)であったとしても、
どんな生い立ちでそうなっているのかを、詳細に知ることは、あまりない。


そういうわけで、自分という結末以外の「人間ができていく過程の様々なバージョン」
を知ることは、結構面白く、
そういうプロセスが垣間見れる伝記的読み物、
自伝や自伝的小説や手記やエッセイというジャンルが、
わたしの読書リストの中にちょろちょろと入ってくるようになったのです。


ホリエモン氏の『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』とか、
スプツニ子さんの『はみだす力』とか。

最近読んだのは、
小島慶子さんの『解縛(げばく):しんどい親から自由になる』。


これは結構…衝撃でした。
帰国子女でアナウンサーで美人で2児の母でパース(わたしも住みたい!)に住んでて…
みたいな表面上からはわからない生い立ちについて。

母親や姉や父とのこじれた関係が、彼女を摂食障害や不安障害になるまで苦しめ続けたという
内容それ自体、スキャンダラスで興味深かったけれど、
子どもを育てるという観点で読むと、
子どもは、生まれてくる環境を選べない、ということを、
改めて感じさせられるものでした。


良くも、悪くも。


縛るような子育てはしないようにしたいと思いつつ、
例えば衣食住環境やわたしの性格的なものなど、
いちいちが、子どもにとってはgivenなものであるという事実を、
いつも忘れないようにしないとなぁと。。。


「ここに生まれてきてラッキーだったな~」と、思ってもらうのは、とってもハードルの高いことなので、
「こんなとこに生まれてきたくなかった!」と、だけ、せめて、
そう思われないようにだけ、気をつけようかな、と…。


意識低めの決意。
自分が行方不明問題の原因は、
自分の欲求がわからなくなり、かつ、興味をもってワクワクしたり、ドキドキしたりっていうことが、
ほとんどなくなってしまっている状況にあります。

たぶん、極端な話をすると、「子どものことにしか関心がない」という状況にあること…

何が食べたいのか(←食いしん坊的に重要)なんか、
本当に特にわからないし(でも、何か食べたいから、それがピシッと見つからなくて若干イライラする…)、
何が着たいのかも、何がしたいのかも、何を話したいのかも、
自分目線では特に興味がなくって。


「趣味はなんですか?」みたいな質問が、今の状態、一番キツイ。


強いていえば、子どもの日々の成長を感じること…
子どもの話し方を真似したり、子どもが今日できたことを喜んでみたり。


そ、それって、趣味なのか?


もう10年以上続けているヨガも、最近ではレッスンには行けていないし、
観劇やコンサートにもほとんど行けていないし、
本もそれほど読んでいない。
嵐(←)の番組もまったく見ていない。(今年のライブは落選しました…)
フランス語の勉強も、中国語の勉強も、全然していいない。

仕事に関する趣味的な勉強も、あまりしていない。
ビジネス書も読まないし、
マーケティングのことも、広告のことも、コミュニケーションのことも、
職場にいるとき以外には、ほとんどまったく考えていない。


お菓子作りもとんとしなくなってしまったし、
裁縫だって、ミシンもしばらく出してない。


旅行にも出かけてない。



つまり、「自分がとってもつまらない人間になってしまったのではないか」ということに行き着き。


特に会社やFacebookや、時どき出かけるランチや飲み会などの場面において、
いわゆる「趣味」のようなものを追求している人のことを見聞きしたり、
その人たちの生き生きした「軸」「こだわり」みたいなものに触れるたびに、

「あれ、なんだか自分って… 何もない!?」

と、空っぽな頭や胸の内を、ぐるぐる…

しかも、そういう場で子どものことを積極的に話したいというわけでもないし、
そのこと自体を微妙だと思っているのもまたタチが悪く。


まわりの人たちと共有できるものが、何もない!


こんなわたし、飲み会に誘ってもらっても、面白くないだろうな…って、自信をなくしちゃって。
(誘われる気なのか!)



そう思って、何だか気持ちの悪い、
皮膚が浮ついたような、変な感覚を持ちながら、
半年ほど社会生活を送ってきたわけですが。


この頃少しずつ、気付いてきたのです。


結局、なんだかんだ疲れ果てようが、
「それ以外のこと」に憧れようが、
或いは、「過去の自分」を羨むように懐かしもうが、
子どものことを考えたり、振り回されたり、いちゃいちゃしたり、
そのことで家族と話し合ったり、
あれやこれやの形でもって、子どものことに向き合っている時間が、
一番、刺激的だったりする…


(家族以外の人と)共有できないのは悲しい、寂しい、つまらない。
そうなんだけども。

それでいいじゃないの、と。


そしてこんな「内にこもった」趣味に没頭する時代は、
きっとそう長くは続かないのだろうと、
自覚し始めてもいて。
(男子である坊ちゃんは、すでに母親をウザったく感じていらっしゃるような雰囲気もあり…
あながち被害妄想もなさそうな!?)


期間限定の、超コンセントレーション!な趣味としての、
子どもとそれに関わる苦労や楽しみやドタバタ群。


不思議なことに、
こんな感じの割り切りができてから、
少しずつ自分が取り戻せつつあるような気も…


逆説的ですね。


子どもが足かせなんじゃなくって、
子どもがいなかった状態の自分を求めて「自分行方不明」にするんじゃなくって、
もう、子どもがいる自分がデフォルトで、
子どもがすべて!みたいな気持ちをもった自分が自然で。

そのことは、ちょっと社会一般的な趣味とかとはちょっと違っていて、
みんなに面白おかしく話せるような、
或いは、「そうなんだ~」って、納得してもらえたり、「すごい!」と言ってもらえたり、
「そうだよね」って共感してもらえたり、
それでもって自信をフィードバックしてもらえるようなコミュニケーションは
なかなかできないかもしれないけれど。


(その辺は、この「趣味」を理解してもらえるはずの家族、主にオットに、がんばって相手してもらいたいところ…!)


スタートラインを定義し直すと、
あがく気持ちが整理されていく、というのでしょうか。


自分行方不明問題と、
その解決のしっぽを掴む日々のぐるぐるについて
続きます。
長らく体調崩していた(る)件で、それなりに大したこともあったりして、
自分の内側を見つめなおす機会をもらった夏の終わりというか秋の始まりというか。


体のことや
1歳半を迎えていまなお激しいぼっちゃんの夜泣き
(卒乳したら夜泣きなくなる伝説は、いったいどこに!?平日ボロボロのわれら、
これについて同じ悩みを持つパパママサークルにでも入りたいくらい・・・)、
仕事のこと、
家のこと、
すべてをやりくりしようとすることのストレスやら
将来の漠然とした不安とか、
そんなことを
オットとも、親たちとも、
あれこれ心のうちをシェアする時間が必然的に生まれたりして、
時々こういう風に
神様だか仏様だかが、
「ちょっと立ち止まりなさい」
と言ってくる季節があるんだなーと、
金木犀のふわふわの匂いとか、
寒々しく降り続ける雨とかに、
激しく振り回されながらも
ぼんやりと思ったりして。


わたしをつなぎとめてくれる毎日が目の前にはあり。


保育園の「防災訓練」でかかってきた電話、
「先ほどの地震で、ぼっちゃんや園児はみな無事です。
準備ができましたら、身分証を持ってお迎えに来てください。」
といういつも聞き慣れた担任の先生の声に、
「ありがとうございます、はい、わかりました」
と答えながら、
職場でうっかり、半べそになってしまったりもした。


今日この日、
災害に直面することなく、
事件や事故に巻き込まれることなく、
元気でいること
無事でいること
かけがえのないこと


喧嘩をしたり、イライラしたり、
疲れ切っていても、
うまくいかないなと落ち込んでも、
とりあえずの心と身体があれば、
幸せは実感できるものだなと
ささやかに思いました。



零れ落ちそうな毎日を、
ぼちぼちと受け止めていきましょう、と。



シルバーウィークは、予定通りのフライトで、とりあえず実家に帰省中!


ぼんやりテレビなんか見ちゃったりして
(相変わらず、ぼっちゃんの夜泣き対応はしなくちゃなんだけど・・・)
おいしいご飯を朝から晩までひたすらに食べて、
ゆっくりお風呂に浸かって、
頭の中空っぽにして、
秋の仕切りなおしと行きましょう。


10月は、人に会う予定がいっぱい!!!!!!


自分が行方不明の影響は、
身体にも及んでくるわけですから、
やはり少しずつでも、一日でも早く、
ピースをかき集めていかなくてはなりませぬ。


内に入りながら
外と出会って
冒険を続けてまいりましょう。