10月8日 記念日 その4 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

ようかん(羊羹)の日。
練羊羹発祥の地とされる和歌山県。その和歌山県東牟婁郡串本町潮岬にある、手作り羊羹で有名な企業、有限会社紅葉屋本舗の店主、坂井良雄が制定。美味しくて、疲労回復に良いとされるビタミンB1を多く含む羊羹を食べて、元気になってもらうことが目的。日付は、食欲の秋の10月と、縁起の良い言葉の「八福」に因んで8日とし、10月8日の「10」と「8」で、「いと(10、十)おいしいよう(8、八)かん」の語呂合わせも。有限会社紅葉屋本舗は、1900(明治33)年に和菓子店「もみぢや菓子舗」として創業以来、「美味しさ」と「安心」を追求してきた。最低限必要な材料だけ使用し、無添加でつくる羊羹は、素材の味がそのまま美味しさに繋がる。ようかん(羊羹)は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み、寒天で固めた和菓子である。寒天の添加量が多くしっかりとした固さの煉羊羹(ねりようかん)と、寒天が少なく柔らかい水羊羹(みずようかん)がある。また、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは蒸し羊羹と呼ばれる。単に「羊羹」と称した場合は、煉羊羹を指すことがある。煉羊羹は糖度が高いので、真空パック等の適切な状態であれば、常温で1年以上の長期保存が可能なものが多い。この特徴を生かして、非常食としても販売されているものもある。元々は中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。鎌倉時代から室町時代に、禅僧によって日本に伝えられたが、禅宗では肉食が戒律(五戒)により禁じられているため、精進料理として羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされる。和菓子の中でもようかんは「棹物(さおもの)」に分類される。そのため、元来の数え方は1本、2本とは呼ばず、1棹、2棹(ひとさお・ふたさお)とする。「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは1599(慶長4)年で、鶴屋(後に駿河屋と改名)の五代目、善右衛門がテングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発、その後も改良が重ねられ、1658(万治元)年には完成品として市販されている。江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷(現在の東京都文京区本郷)の藤村羊羹を始め、多くの名舗が現われた。一方、初期の製法の羊羹(蒸し羊羹)は、安価な下物(練羊羹の半値)になり、その一部は丁稚羊羹と称したものもある。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹も作られ、後に水分を多くした水羊羹が作られるようになり、御節料理として、冬の時季に食された。水羊羹は、今では御節料理としての風習も忘れられ、冷蔵技術の普及と嗜好の変化から通年化の傾向が強く、主に夏に冷やして食されることが多い。現在では、この他にも、食品が練り込まれた羊羹が、土産品やお茶請けとして親しまれている。比較的高級な羊羹が切分けて食べる棹物であるのに対し、安価な駄菓子として、一口サイズで小分け包装された製品も開発された。特殊な包装としては、ゴム風船の中に詰めた玉羊羹が1937(昭和12)年に登場している。これは当時、戦場の兵士に送る慰問袋用の菓子として、福島県二本松市の和菓子店「玉嶋屋」が、日本陸軍からの指示により開発したものである。第二次世界大戦後も継続して、各社から製造販売されている。 
角ハイボールの日。 
1937(昭和12)年10月8日、サントリーウイスキー角瓶が発売されたことから、大手飲料メーカーのサントリー株式会社(現在は、大阪市北区堂島浜に本社を置く持株会社、サントリーホールディングス株式会社傘下の酒類事業会社、サントリー酒類株式会社となっている)が制定。ハイボール、ウイスキーのソーダ割りの美味しさをアピールすることが目的。ハイボールとはカクテルの一種で、広義ではスピリッツ(アルコール度数が高い蒸留酒)、リキュール(蒸留酒やワインに何らかの成分を加えたもの)をソーダやトニックウォーター等の炭酸飲料や、フレッシュジュース等、アルコールの含まれていない飲料で割ったものを指す。日本では、ウイスキーをソーダ水で割ったもの(ウイスキー・ソーダ)をこう呼ぶのが一般的である。角ハイボールという呼び名は、サントリーが製造しているウィスキーが亀甲模様の角瓶に入っていることに由来する。角瓶入りのウィスキーとソーダを合わせて、氷を浮かべたものが角ハイボールであり、製造元のサントリー株式会社では、角瓶入りウィスキーとソーダの割合は1:4と推奨している。
問屋の日。
日本最大の現金卸問屋街として知られる東京都中央区日本橋横山町、及び、隣接する東京都中央区日本橋馬喰町地域にある「横山町馬喰町新道通り会」が制定。江戸時代から続く問屋業が、時代に合わせて変化をしながら受継ぎ、流通業の一翼を担っていることを、多くの人に知ってもらうことが目的。問屋街の町並みや豊富な品揃え等、その魅力をPRしていく。日付は、10月8日の「10」と「8」で、「問屋(とん[10.十]や[8、八])」の語呂合わせから。問屋は、現代における一般的意味としては卸売業者を指すが、歴史上の意味としては、鎌倉時代に運送、倉庫、委託販売業を兼ね、後には、一般の商品も取扱うようになった組織、問丸に由来する。室町時代には問屋と呼ばれるようになり、やがて運送専門や卸売専門に業種分化しても、各々が問屋と呼ばれた(干鰯問屋・両種物問屋等)。また、江戸時代に、領主と住人の仲介者として宿場町の自治行政を行なうと共に、問屋場を管理した町役人(宿場役人)の長も問屋と呼ばれ、多くは本陣を経営した。なお、廻船問屋は江戸時代に至っても、運送業と卸売業の性格を併せ持ったままであった。
東ハトの日。 
東京都豊島区南池袋に本社を置く、「キャラメルコーン」「オールレーズン」「ポテコ」「ハーベスト」等の菓子で知られる菓子メーカー、株式会社東ハトが制定。日付は、10月8日の「10」と「8」を、社名の「東(10、十)ハ(8、八)ト」と読む語呂合わせから。株式会社東ハトの創業時の社名は「東京製菓」であったが、同名の企業が多数存在したため、初代社長の好みであった鳩を冠して「鳩印東京製菓」のブランドで営業を行なった。しかし、社名が長く、電報での発注の際に料金が余計に掛かるため、問屋が「ハトトウ」「トウハト」の略称を使用して注文するようになり、その内に後者の響きが良かったため、社名にも採用することになった。関連会社によるゴルフ場開発が失敗して多額の負債を抱えたことで、2003(平成15)年に「民事再生法(平成11年12月22日法律第225号)」の適用を申請して倒産する。その後には再建され、現在は大手パンメーカー、山崎製パン株式会社の子会社となっている。
ハンドバッグの日。
東京都台東区柳橋に所在する、ハンドバッグ業界の活性化と服飾文化の興隆を目指す社団法人、日本ハンドバッグ協会が制定。ハンドバッグの需要を喚起することが目的。日付は、ハンドバッグの「ハンド(10、十)」で10月。「バ(8)ッグ(9)」から、10月8日と10月9日の2日間としたもの。現在は一般社団法人日本バッグ協会となっている、日本ハンドバッグ協会では、ハンドバッグ業界の活性化を図る全国統一PR施策として、1999(平成11)年より「日本バッグアップ大賞」を実施している。概ね、鎌倉時代から室町時代までの頃、一家の主婦は一家の中で主婦権といもいうべき大きな力を持っていて、その証として、財物を入れた「袋」を管理していた。その一家の中心である女性を「オフクロサマ」と呼び、これが今の「オフクロ」の語源になっているという。大正時代に洋装が普及し始め、革製品のバッグが進出し、昭和初期に「ハンドバッグ」と呼ばれるようになった。この頃、女性が社会に出て働くようになり、財布、カギ、ハンカチ、化粧品等を入れる実用的なアクセサリーとして、ハンドバッグが大流行した。