9月13日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

クリスタルジェミーの日。 
素肌美研究家で「美白の女神(ミューズ)」として知られる中島香里。中島香里が、東京都渋谷区神宮前に本社を置き、化粧品や健康食品等、美容と健康に関する事業を行なう企業、株式会社クリスタルジェミーの社長であることを知ってもらい、より多くの女性を美しくしたい、との想いを抱いていることを広めるために制定。日付は、9月13日の「9」と「13」で、「ク(9)リスタルジェミー(13)」と読む語呂合わせから。英語では『CRYSTALJEMMY DAY』。株式会社クリスタルジェミーのブランド「クリスタルジェミー」は、1984(平成59)年に誕生し、訪問販売からスタートした。顧客からの「肌の悩み」や「商品への要望」に応えて商品開発を続け、これまでに多彩なシリーズが誕生している。なお、中島香里は、8月9日の「8」と「9」で、「美白(びは[8]く[9])」の語呂合わせから、8月9日を「美白の女神の日」としている。
管理会計の日。
東京都新宿区山吹町に事務局を置く、管理会計の研究や教育、経営管理実務に関心をもつ研究者や実務家で構成される学術研究団体、日本管理会計学会が制定。経営組織の運営において、健全な会計倫理に基づく適切な管理会計の理論と実務は、ますます重要になっている。道徳経済合一説を唱えた、日本資本主義の父と称される元大蔵官僚で実業家の渋沢栄一は、経営における会計の重要性を認識し実践した。渋沢栄一の功績を学び、顕彰すると共に、管理会計の意義と重要性を広く紹介して、その理論と技法、実務の普及と定着が目的。日付は、管理会計の先駆者である渋沢栄一の経営思想を代表する著書『論語と算盤』の初版の発行日、1916(大正5)年9月13日から、9月13日を記念日とした。1991(平成3)年7月27日に設立された日本管理会計学会は、学会誌として『管理会計学』を年に2回発行し、フォーラムを年に3回開催する。  
乃木大将の日/乃木忌/希典忌。
第122代天皇、明治天皇の大喪儀(天皇の葬儀)の日となった1912(大正元)年9月13日、陸軍大将乃木希典が、夫人の乃木静子と共に殉死した。乃木希典は、周防国/長門国長州藩の支藩である長門国長府藩(長門府中藩)藩士の家に生まれ、周防国/長門国長州藩藩士で思想家・教育者、吉田松陰の叔父に当たる兵学者、玉木文之進に薫陶を受ける。明治維新後は陸軍軍人となり、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)で発生した不平士族による反乱、秋月の乱を鎮圧する。1877(明治10)年の西南戦争(明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模の反乱で、現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、明治維新の元勲の1人、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱)では、乃木希典率いる熊本鎮台歩兵第十四連隊(駐屯地の小倉[現在の福岡県北九州市小倉北区と小倉南区に相当する]から熊本へ進軍していた)は西郷軍を相手に苦戦し、部隊を後退させた際に連隊旗を奪われ、これが乃木希典にとって、終生の恨事となる。その後も西南戦争での野戦に参加した乃木希典は、負傷して前線から退き、後方の軍団病院に入院するが、病院を脱走して前線に復帰。部下の制止を振切って連隊を指揮し、また重傷を負って野戦病院に入院したにも係わらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名を取った。1878(明治11)年、乃木希典は東京の歩兵第一連隊長に抜擢される。歩兵第一連隊長時代の乃木希典は、西南戦争の経験から、白兵戦術よりも射撃戦術の向上を図り、部下に訓練を課した。しかし当時、射撃練習場に適した場所は、深川越中島(現在の東京都江東区西部に所在)にある旧式、かつ手狭なものが1ヶ所だけであり、当時兵営が赤坂(現在の東京都港区北部に所在)にあった第一連隊は、訓練に支障が出ていた。そこで乃木希典は、新たな実弾射撃場の設立を意見具申し、自ら率先して設営工事を手伝い、1881(明治14)年に青山射撃場を完成させた。青山射撃場の跡地は現在、東京都港区六本木にある都立公園(総合公園)、青山公園の「南地区」となっている。その後、昇進を続けた乃木希典は、1885(明治18)年5月21日には最年少で少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。1887(明治20)年から翌1888(明治21)年までドイツへ留学して帰国後休職し、栃木県北部の那須野で農耕生活を送る。1892(明治25)年には復職して日清戦争に出征、武功を挙げて「将軍の右に出る者なし」と言われる程の評価を受けた。日露戦争では、中国北東部にある遼東半島の先端部にあった旅順要塞を正攻法で攻略。乃木希典は、補充のできない要塞を、正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し、相手を消耗させることで勝利できると確信していたが、戦車も航空機もない時代に、機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。充分な補給が行なわれず、苦戦する乃木希典の第3軍に対する陸軍上層部の非難が高まり、一時は乃木希典を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において、乃木希典更迭に否定的な見解を示したことから、乃木希典の続投が決まったと言われている。約半年に亘る激戦の末、乃木希典は旅順要塞を陥落させる。この戦いで繰広げられた塹壕陣地戦は、後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りするような戦いとなった。鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地を、機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると、いかに突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも、塹壕への砲撃はそれ程相手を消耗させないことや、予備兵力を消耗させない限り、敵陣全体を突破するのは不可能であること等、第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし、西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行なわれた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り、第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった。乃木希典が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木希典は、日露戦争を代表する将軍と評価された。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となった。1907(明治40)年、明治天皇は皇孫である迪宮裕仁親王(後の第124代天皇、昭和天皇)が学習院(旧宮内省[現在の宮内庁の前身]の外局として設置された官立学校で、1947[昭和22]年に官立学校としては廃止され、新たに私立学校として再出発した)に入学することから、その養育を乃木希典に託すべく、学習院院長に指名した。第10代学習院院長となった乃木希典は、殉死するまでその職を続けることとなる。学習院の生徒達は、乃木希典を「うちのおやじ」と言い合って敬愛したという。乃木希典は、明治天皇大葬が行なわれた日の午後8時頃、妻と共に自刃して亡くなった。乃木希典の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木希典を慕っていた迪宮裕仁親王は、乃木希典が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息を付いた。乃木希典の訃報は、日本国内に留まらず、欧米の新聞においても多数報道されている。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列し、その様子は「権威の命令なくして行なわれたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。乃木希典は、「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、現在の東京都港区赤坂に所在する「乃木神社」(他にも、乃木希典ゆかりの地等に、乃木希典を祀った複数の乃木神社がある)や、東京都港区の赤坂8丁目と9丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂、「乃木坂」、東京都港区南青山1丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)千代田線の駅、「乃木坂駅」に名前を残している。
白雄忌。
俳諧師、加舎白雄の1791(寛政3)年の忌日(旧暦)。加舎白雄は、川柳等に押されていた俳諧を復興させた「天明中興の五傑」の1人、また、「天明の六俳客」の1人として「老蒼なる白雄」と称され、現在の京都市右京区にある落柿舎、現在の滋賀県大津市馬場にある無名庵と並び、日本三大俳諧道場の1つとされる鴫立庵(現在の神奈川県中郡大磯町に所在)の第5代目庵主を務めた他、門人を引連れて諸国を行脚する。後に、江戸日本橋(現在の東京都中央区に所在)に春秋庵を開いて関東に一大勢力を築き、俳諧師で絵師の建部巣兆、俳諧師の倉田葛三らの門人を育成した。門人は約4,000名を数え、俳人として名を知られた者だけでも200名以上いたという。無技巧ながら、繊細で情の籠った句が特徴で、妻帯せず清貧孤高であった生き様から、「日東の李清蓮」(李青蓮とは、中国詩歌史上において、同時代の杜甫と共に最高の存在とされ、後世に「詩仙」と称される中国の盛唐の時代[8世紀前半頃]の詩人、李白のこと)と賞された。