9月12日 できごと その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

1213年 - アルビジョア十字軍: ミュレの戦い。アラゴン(中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペイン北東部、アラゴン州に存在した王国)王ペドロ2世が戦死する。 
1629年 - 紫衣事件。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜ったものである。江戸幕府は、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたが、第108代天皇、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数名の僧侶に紫衣着用の勅許を与える。これを知った江戸幕府は1627年に、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反と見做して、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代の板倉重宗に、法度違反の紫衣を取上げるよう命じる。幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺(京都でも有数の規模を有する禅宗寺院)住職の沢庵宗彭ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出するが、沢庵宗彭らの高僧は、出羽国上山(現在の山形県南東部に所在)等への流罪に処せられる。後水尾天皇はこの事件をきっかけに、幕府に何の相談もなく退位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立であったが、この事件により、天皇が幕府の下にあることも決定付けられる。
1683年 - 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国(現在のトルコ共和国の前身)軍が大軍をもって神聖ローマ皇帝の居城ウィーン(現在のオーストリアの首都)を攻撃するが、中央ヨーロッパ諸国連合軍に大敗する。
1814年 - 米英戦争: ボルティモアの戦い。 
1847年 - 米墨戦争: チャプルテペクの戦い。 
1848年 - スイスが連邦憲法を制定する。1815年のウィーン会議(フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的とした会議)で、スイスの独立が改めて確認されると共に、永世中立国として国際的に認められる。1847年、スイスを構成していたカトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争に発展し、この紛争は約1ヶ月続いて、100名余りの犠牲者が出る。内戦の結果、連邦制度が採択され、各カントン(自治州)の代表からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て、各カントン(自治州)に委ねられる。この時に形成されたスイス連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。 
1880年 - 司法省(主に刑務所の管理や司法行政等を行なっていた行政官庁で、現在の法務省の直接の前身ではあるが、裁判所に対する司法行政権を有していた点は異なっている)・司法省法学校(明治初期に司法省が管轄した、フランス法を専門とする司法官養成のための教育機関)関係者の支援を受けて設立された、準官学的な私立の法律学校で、当時の法学の主流であったフランス法学を講じた東京法学社(現在の法政大学)が開校。 
1871年 - 兵部省海軍部水路局(現在の海上保安庁海洋情報部の前身)が設置される(水路記念日)。 
1881年 - 島根県から分離して、鳥取県を再設置。 
1896年 - 9月3日から9月12日にかけて、記録的な大雨により、琵琶湖周辺で「明治29年の大洪水」と呼ばれる大きな洪水が発生する。日本列島に停滞する前線と、日本の南海上にあった台風の影響で、滋賀県内では9月3日から9月12日にかけて、所によって1,000mmを超える降水量を観測し、特に、9月7日には、滋賀県彦根市で日降水量が597mmに達する記録的な大雨となる。この影響で、琵琶湖の水位は+3.76mを観測し、湖に接する水田や市街地が広く浸水し、長いところでは半年以上、浸水が続いた地域も出る。この洪水で、滋賀県では死者・行方不明者34名、損壊・浸水家屋90,000棟以上の大きな被害となっている。
1903年 - 日本で最初の公営による電気鉄道、大阪市営電気鉄道(大阪市電、1903年から1969年にかけて大阪市が経営していた路面電車で、大阪市交通局が事業を行なっていた)築港線、花園橋西詰駅(後の花園橋駅) - 築港桟橋駅(後の大阪港駅)間(路線距離5.1km)が開業。日本初の公営路面電車路線となる。
1910年 - ドイツ南部にあるミュンヘンで、オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーの交響曲『第8交響曲』が作曲者自身の指揮の下で初演。『第8交響曲』は、グスタフ・マーラーの作品中最大規模であるだけでなく、音楽的にも集大成的位置付けを持つ作品として、自他共に認める存在で、大規模な管弦楽に加えて8名の独唱者、及び複数の合唱団を要する、巨大なオラトリオ(日本語では「聖譚曲」と呼ばれる、バロック音楽を代表する楽曲形式の1つ)、或いはカンタータ(単声、又は多声のための器楽伴奏付の声楽作品)のような作品となっている。演奏規模の膨大さから『千人の交響曲』の名で広く知られているが、これはグスタフ・マーラーによる命名ではなく、初演時の興行主であるドイツ人、エミール・グートマンが、話題作りのために付けたものである。初演は大成功を収め、演奏終了時、聴衆も演奏者も熱狂の渦に包まれたという。グスタフ・マーラーの自作演奏会としては、生涯最大の成功を収めたと同時に、近代ヨーロッパにおいて音楽創造が文化的事件となった例の1つともなる。 
1913年 - 日刊新聞『都新聞』(現在の東京新聞の前身の1つ)で、作家の中里介山による長編時代小説『大菩薩峠』が連載開始。以降、掲載紙を変えながら28年間連載され、1941年に未完のまま終了する。『大菩薩峠』は幕末が舞台で、虚無に取付かれた剣士、机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠(山梨県甲州市塩山上萩原と北都留郡小菅村鞍部の境にある峠)に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描いている。話は、幕末から明治に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死と共に未完に終わる。作者は「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業を描こうとし、世界最長を目指したという。また、大衆小説の先駆けとされる不朽の傑作でもある。 
1917年 - 大蔵省(現在の財務省と、内閣府の外局[特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁]、金融庁の前身)が「金貨幣又は金地金輸出取締方 (大正6年9月12日大蔵省令第28号)」を公布。日本の金本位制が停止される。なお、金本位制とは、一国の貨幣価値(交換価値)を金に裏付けられた形で金額で表わすものであり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。1919年にアメリカ合衆国が金本位制に復帰したのを皮切りとして、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年、ニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌(ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象)が始まったことにより、金本位制は再び機能しなくなり、1931年9月のイギリスを契機として、1937年6月のフランスを最後に、全ての国が金本位制を離脱する。日本では、第一次世界大戦後に金本位制復帰の機会を窺うも、1923年に発生した大正関東地震(関東大震災)等の影響で時期を逸し、1930年に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を実施したが、多額の貿易赤字に伴ない、多量の金流出が起きたことで、翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止する。第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心としたIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)が創設される。他国経済が疲弊する中、アメリカ合衆国は世界一の金保有量を誇っていたため、各国は1オンス = 35ドルの平価で金と結び付けられたアメリカ合衆国の通貨、米ドルとの固定為替相場制を介し、間接的に金と結び付く形での金本位制となる。しかし、1971年8月のいわゆるニクソン・ショック以降は、金と米ドルの兌換が停止される。同年12月にスミソニアン協定で、1オンス = 38ドルとドルの平価を切下げつつも、金本位制の性格を維持しようとしていたが、各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行する形で、先進国の通貨は、金本位制が有名無実化する形で離脱することになる。同1973年には、1オンス = 42ドル22セントと、再び平価が切下げとなり、1976年1月の国際通貨基金(IMF)暫定委員会では、変動相場制と米ドルの金本位制廃止が確認され、1978年4月には、協定発効に伴なって、先進国の通貨における金本位制は完全に終焉する。 
1919年 - 陸軍軍人であったアドルフ・ヒトラーが、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党[ナチス])の集会に初めて出席する。