8月17日 記念日 その3 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

日本最高気温の日。
2018(平成30)年7月23日に埼玉県熊谷市で41.1℃が観測されたが、2020(令和2)年8月17日には、静岡県浜松市でも同じ41.1℃が観測された。フェーン現象(気流が山の斜面にあたった後に風が山を越え、暖かくて乾いた下降気流となって、その付近の気温が上がる現象)により、夏の暑さが厳しい浜松市では、冬には「遠州のからっ風」と呼ばれる強い季節風が吹くため、気温以上に寒く感じられる日が多い。
Dream Zoneのラジオを楽しむ日。
東京都中央区晴海に本社を置く芸能事務所、株式会社Dream Stageが制定。日付は、株式会社Dream Stageに所属し、ラジオのPR活動を行なうラジオグループ「Dream Zone」の結成日、2019(令和元)年8月17日から。「Dream Zone」を通して、ラジオに慣れ親しみ、ラジオの良さ、楽しさを、改めて実感してもらうことが目的。「Dream Zone」の現在のメンバーは、リーダーで青色担当の江﨑夢と、T/C(テクニカルコーチ)で紫色担当の児玉萌々の2人。コンセプトは「懐かしいあの頃の夢をもう一度」。次世代に向けたラジオ業界の発展のため、民放ラジオ局6社の共同企画として結成された「Dream Zone」は、全国のラジオ番組にレギュラー出演している。
インドネシア独立記念日。
東南アジア南部に位置する共和制国家、インドネシア共和国は、約5,110kmと東西に非常に長く、また、世界最多の島嶼を抱える国家である。赤道に跨る1万3,466もの大小の島により構成される。人口は、2億7,000万を超える世界第4位の規模であり、また、世界最大のムスリム(イスラム教の教徒)人口を有する国家としても知られる。東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化に関する地域協力機構、東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主とされ、東南アジア諸国連合(ASEAN)本部が首都ジャカルタにある。そのため、2009(平成21)年以降、アメリカ、中国等、50ヶ国余りの東南アジア諸国連合(ASEAN)大使が、ジャカルタに常駐し、日本も、2011(平成23)年5月26日、ジャカルタに東南アジア諸国連合(ASEAN)日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。16世紀になると、香辛料貿易の利を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀には、バタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタの、オランダ植民地時代の名称)を本拠地とした、オランダ東インド会社による覇権が確立され、18世紀末に至り、ほぼ現在のインドネシアの領域全体が、オランダ本国政府の直接統治下に入った(オランダ領東インド)。20世紀前半、オランダによる過酷な植民地支配下で、オランダ領東インドでは住民による民族意識が芽生え、民族主義運動が盛上がる。しかし、オランダの植民地政府による弾圧を受け、以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。第二次世界大戦対米英戦開戦後、日本軍は破竹の快進撃を続け、蘭印(オランダ領東インド)への進攻作戦、蘭印作戦は1942(昭和17)年3月に終了し、「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し、日本は第二次世界大戦対米英戦の開戦目的を達成した。蘭印での日本の軍政については、基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した。オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあった民族主義運動家、独立運動家のスカルノを救出し、日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立てて実施された。1944(昭和19)年以降、アジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けて、日本は蘭印の独立を認容し、スカルノを主席とする独立準備委員会が設立された。1945(昭和20)年8月15日、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は。1945(昭和20)年8月17日、インドネシア独立を宣言した。しかし、インドネシアは、これを認めず再植民地化に乗出したオランダと、独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、第二次世界大戦前の峻烈な搾取を排除し、独立を目指す人々の戦意は高かった。独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が、独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない、日本軍人の一部が提供した武器や弾薬で武装化した。他方で政府は、第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ)等に外交使節団を派遣して、独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947(昭和22)年8月1日には、国際連合安全保障理事会で停戦、及び平和的手段による紛争解決が提示された。独立戦争は約4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。1949(昭和24)年12月、インドネシアは、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって、国際法上正式に独立が承認された。また、インドネシアは、現在でも8月17日を独立記念日としており、首都ジャカルタを中心に、街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。今日に至るまで、日本を始めとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、1999(平成11)年の東ティモール独立(国際連合の主導による)を問う住民投票での暴動に、軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001(平成13)年のアメリカ同時多発テロによって、アメリカ合衆国との関係が悪化し、2005(平成17)年まで、武器禁輸等の制裁を受けた。このため、インドネシアは、ロシアや中国との関係強化に乗出し、多極外交を展開している。日本は、インドネシアの最大輸出相手国であり、また、国際協力機構(JICA)を通じて、インドネシアへの開発援助の主要な供与国である。日本とインドネシアの関係は良好で、約1,800社を超える日本企業が、インドネシアで事業を展開している。特に近年、日本文化がブームとなっており、日本企業の投資や、日本語を学ぶ人が増えている。  
高見順忌/荒磯忌。
作家・詩人、高見順の1965(昭和40)年の忌日。高見順は、プロレタリア文学(個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結び付いた文学)運動に参加したが、警察に検挙されて「転向」する。1935(昭和10)年に、饒舌体と呼ばれる手法で短編小説『故旧忘れ得べき』を発表、第1回芥川龍之介賞(純文学の新人に与えられる文学賞で、通称は芥川賞)候補となり、作家としての地位を確立した。鋭敏な感覚で、弧立した知識人の姿を描き出した他、第二次世界大戦後は、私小説風に傷付き易い精神を掘下げた作品を次々と発表する。また、晩年には、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の開設に尽力している。代表作は、短編小説『故旧忘れ得べき』や長編小説『如何なる星の下に』、詩集『樹木派』『死の淵より』等。福井県坂井郡三国町(現在の福井県坂井市三国町、高見順の生誕地)にある荒磯遊歩道(国の名勝・天然記念物に指定されている東尋坊を中心とした、約4kmに亘る自然景観が見事な遊歩道)には、高見順の絶筆詩集『死の淵より』に入れられた詩「荒磯」を碑文とする高見順文学碑がある。その前では、高見順を偲ぶ集いとして、毎年7月に荒磯忌が営まれる。  
蕃山忌。
江戸時代初期の陽明学者、熊沢蕃山の1691(元禄4)年の忌日(旧暦)。熊沢蕃山は、近江聖人と称えられた陽明学者の中江藤樹の門下に入り、陽明学(心の陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教えで、万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、不動心を確立する教え)を学ぶ。陽明学に傾倒していた備前国岡山藩初代藩主池田光政に重用され、池田光政を補佐し、飢民の救済に尽力した他、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実させた。また、岡山藩初期の藩政確立も取組んだ。さらに、日本初の庶民教育の学校として開かれた「閑谷学校」の前身となる、「花園会」の会約も起草している。大胆な藩政の改革は、守旧派の家老らとの対立をもたらした上、江戸幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である熊沢蕃山は、隠棲を余儀なくされ、岡山藩を離れて京都に居を移し、多数の武士や町人に師事された。しかし、その名声が高まるにつれて、江戸幕府に監視されるところとなり、京都から追放されて、その後は浪々の身となる。熊沢蕃山は、執筆活動と共に幕府の政策、特に、参勤交代や兵農分離を批判し、また、岡山藩の批判をも行なっている。幕末には、熊沢蕃山の思想は再び脚光を浴びるところとなり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた常陸国水戸藩藩士の藤田東湖や、明治維新の精神的指導者・理論者として知られる周防国/長門国長州藩藩士の吉田松陰等が傾倒し、倒幕の原動力となった。