8月17日 記念日 その1 | スズメの北摂三島情報局

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2011/08/02 リニューアル
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柴犬ハルがお伝えします

西暦(グレゴリオ暦)AD2024年 令和6年 平成36年 
昭和99年 大正113年 明治157年 皇紀2684年 干支 甲辰(きのえ たつ)
第3土曜日 旧暦  7月14日、友引、月齢 12.7  
グレゴリオ暦で年始から230日目、年末まであと136日。
誕生花 ベルガモット・ユリノキ。

二十四節気・雑節等
濃霧昇降す。
七十二候の1つ(39候)。
 
プロ野球ナイター記念日。
1948(昭和23)年8月17日、現在の神奈川県横浜市中区の横浜公園内に所在した横浜公園平和野球場(別名は、ルー・ゲーリック・メモリアル・スタジアム、横浜ゲーリッグ球場、現在はその跡地に横浜スタジアムが建っている)で日本初のプロ野球公式戦の夜間試合(ナイトゲーム)、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)対中日ドラゴンズ戦が行なわれた。当時、横浜公園平和野球場は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されていたが、引続き野球場として利用され続け、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、他の球場に先駆けて照明施設も設置されていた。プロ野球初の試みのためにこの球場を借受け、対戦カードは、比較的人気の高い東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)対中日ドラゴンズ戦が組まれた。正確な観客数は伝わっていないものの、翌日の各新聞では「空前の超満員」と報じられ、観客がスタンドから溢れ、ファウルグラウンドからも観戦していた程と伝えられている。午後8時8分に試合が始まり、午後10時1分に終了しており、結果は3-2で中日ドラゴンズが勝利している。翌日の新聞には「球場は周囲八ケ所から放射される30万燭光の強烈なライトに真昼のような明るさ」と報じられたが、本来は連合国軍が遊びで野球をするために設置した照明設備に過ぎなかったこともあり、実際の明るさは、現在行なわれるナイターの10分の1程度であったという。そのため、初回に東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)の青田昇が、球が見えないため顔面付近に死球を受け負傷退場したり、試合中に守備に付いていた選手により、グラウンドに取残されていた練習用のボールが発見されたり等、さまざまなハプニングが発生した。この試合の前日、8月16日に球場の別名の由来となったルー・ゲーリッグ(毎日プレーを厭わないその頑丈さから「鉄の馬[Iron Horse]」と呼ばれ、1925[大正14]年から1939[昭和14]年の14年間に亘り、当時の世界記録となる2,130試合連続出場を果たしたニューヨーク・ヤンキースの内野手)の同僚で、共にメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)を賑わせたジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア、通称ベーブ・ルースが亡くなっており、試合前に両軍が追悼の黙祷を捧げている。ナイターとは、野外で行なわれる試合に限り使われ、バスケットボール、ボクシング等の室内競技において、ナイターと呼ばれることは殆どない。但し、1950年代には、球場自体がボクシング会場として利用され、ナイターとして実施された例は多数ある。しかし、近年野球等においてドーム球場が完成し、室内での試合となっているが、野球等は伝統的に、夜間の試合はナイターと呼ばれる。また、日本の放送局が行なうプロ野球中継のナイトゲームの放送を「○○ナイター」と表記することもある。英語では、「ナイトゲーム(night game)」ということから、「ナイター」は、一般的に和製英語であるとされる。そのため、日本の公共放送(公共企業体や地方自治体等、国家以外の公的機関によって運営される放送局による放送)を担う事業者、日本放送協会(NHK)では、「ナイター」ではなく「ナイトゲーム」を採用している。しかし、アメリカンフットボール等でも「ナイター」という言葉を使うことから、和製英語ではないという説もある。英語では「night game」と呼ぶことは確かであるが、「nighter」も稀にではあるが、(野球に限らず)「夜間興行」という意味で確かに存在するという。これらのことについて、日本生まれの和製英語が、偶然英語で稀に使われている語と一致したのか、或いは、英語の稀語が日本で定着したのか(言語の伝来においてこのようなことは珍しくない)、和製英語が逆輸出された結果なのか、定説はない。1949(昭和24)年6月10日付のAP通信(世界的な通信網を持つ、アメリカの大手通信社)によるメジャーリーグベースボール(MLB、大リーグ)原稿の英文の中に「nighters」という記述が見られ、日本の新聞はそれを参考にした、とされる。ナイターの照明を、「カクテル光線」と称するものもあるが、これは、自然光に近付けるため、異なる色温度の光源を複数混在させて照射することを、カクテル(混酒、ベース[基酒]となる酒に、他の酒、又はジュース等を混ぜて作るアルコール飲料)に例えている。因みに、1933(昭和8)年7月10日、現在の東京都新宿区西早稲田に所在した戸塚球場で、早稲田大学野球部の二軍対新人戦が行なわれたが、これが日本初の野球のナイター試合となった。戸塚球場は、1902(明治35)年に早稲田大学が設けた野球場で、日本野球の草創期、学生野球を中心に使用され、日本で初めて照明を設置し、ナイターが行なわれた。後に安部球場と改称された後、1987(昭和62)年末に閉鎖され、現存しない。跡地は現在、中央図書館、国際会議場等が入っている建物が建てられている。明治時代後半、学生野球熱が高まる中、早稲田大学で1901(明治34)年に野球部が結成され、翌1902(明治35)年10月、戸塚球場を開設した。開設に当たっては、初代野球部長安部磯雄が、日本の国際化に野球の発展は必要とし、早稲田大学の創設者大隈重信を説得したと言われている。球場の予定地は、穴八幡宮(現在の東京都新宿区西早稲田の市街地に鎮座している神社)付近等が候補に挙がったが、野球が教育の一環であると考えた安部磯雄は、大学に隣接していた現在の東京都新宿区戸塚町の農地に着目し、地主達に借用の話を取付けた(土地は、後に早稲田大学の所有となる)。今日の感覚にすれば、戸塚球場は、一大学の野球部のホームグラウンドであり、練習場にしか過ぎないが、当時は日本の野球草創期でプロ野球もなく、大学野球が人気を集めていた頃であり、かつ、本格的な野球場が少ないこともあって、慶應義塾大学の三田綱町野球場(現在の東京都港区三田に所在する三田綱町グラウンド )と共に、東京の代表的な野球場であった。海外チームとの招待試合や、1914(大正3)年からの三大学リーグ戦(早稲田、慶應、明治)が開催され、1925(大正14)年には、観客のためのスタンドも設置される。同年秋から始まった東京六大学リーグ戦にも使用されたが、1926(大正15)年10月、「神宮球場」の通称で知られている、東京都新宿区の明治神宮外苑に所在する野球場、明治神宮野球場が完成すると、舞台は神宮球場へと移り、試合数は次第に減少していった。しかし、1931(昭和6)年の新五大学野球リーグ(現在の東都大学野球連盟の旧名称)の結成式、及び結成記念試合を行なったり、さらに、1936(昭和11)年には、この年に始まったプロ野球(当時の日本職業野球連盟、現在の日本野球機構[NPB]のルーツに当たる)の試合も行なわれた。1933(昭和8)年7月には、日本で初めて照明設備を設置したが、これは、1930(昭和5)年頃から、アメリカのマイナーリーグ(メジャーリーグベースボール[MLB、大リーグ]の傘下リーグ)で、照明を点けたナイターが行なわれたことに触発されたもので、1.5kw電灯156個を、高さ30.6mの鉄塔6基に取付けたもので、総工費は6万円(現在の貨幣価値に換算すると、約3億円程度)であった。 完工後の7月10日には、早稲田大学野球部の二軍対新人戦が日本初のナイターで行なわれ、試合は11-2で二軍が勝利したが、9回までは行なわれず、7回で打切りになった。この試合には、当時の文部大臣(現在の文部科学省の前身の1つで、教育、文化、学術等を担当していた文部省の長)鳩山一郎(後に、第52代・第53代・第54代首相となっている)が始球式に臨んだ。
地域と共に成長の日。
沖縄県宜野湾市普天間に事務局を置き、より良い社会づくりを目指して活動する公益社団法人、宜野湾青年会議所(宜野湾JC)が制定。日付は、宜野湾青年会議所が日本青年会議所より会員として認められた1978(昭和53)年8月17日から。不登校や引きこもり等、生きづらさを抱えた子ども達を地域で見守り、支えていくことが目的。記念日を通してその認識を新たにし、継続的に行動していく。また、公益社団法人宜野湾青年会議所の、地域と共に成長し子ども達の未来を考える活動も持続的に行なっていきたい、との願いが込められている。1949(昭和24)年、明るい豊かな社会の実現を理想とし、責任感と情熱をもった青年有志による東京青年商工会議所(「商工会議所法[(昭和28年8月1日法律第143号]」制定に伴ない、青年会議所と改名)設立から、日本の青年会議所(JC)運動は始まった。共に向上し合い、社会に貢献しようという理念の下に、各地に次々と青年会議所が誕生した。宜野湾青年会議所の活動エリアは、沖縄県宜野湾市と、沖縄県中頭郡の中城村、北中城村の1市2村で、主な活動として、青少年育成事業・まちづくり事業・世界の仲間との交流・自己トレーニングがある。