-030年 - 古代エジプトの王朝、プトレマイオス朝の実質的な最後のファラオ(君主)、クレオパトラ7世フィロパトルが自殺する。
1099年 - 第1回十字軍: アスカロンの戦い。
1335年 - 中先代の乱: 鎌倉に幽閉中の護良親王(第96代天皇、後醍醐天皇の皇子)が、鎌倉将軍府(関東を掌握するために設置された機関)の執権、足利直義(足利尊氏の同母弟で、足利尊氏を補佐して室町幕府創設に貢献する)の命により暗殺される。
1590年 - 豊臣秀吉の命により、徳川家康が関八州(北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部で、現在の関東地方にほぼ相当する)に国替えとなる。
1676年 - インディアン戦争: ワンパノアグ族(北アメリカの先住民族の1つ)の酋長メタコメットが戦死し、フィリップ王(酋長メタコメットの別名)戦争が、白人側の勝利で終結する。
1759年 - 七年戦争: クネルスドルフの戦いが行なわれる。
1799年 - 浄瑠璃作者の近松柳、近松湖水軒、近松千葉軒の合作による人形浄瑠璃『絵本太功記』が、大坂道頓堀(現在の大阪市中央区道頓堀に所在)の豊竹座で初演。初演時の外題は『恵宝太功記』で、歌舞伎の初演は翌年となる。江戸時代初期に書かれたと言われる、豊臣秀吉に関する逸話を纏めた書籍『川角太閤記』を元にした読本(史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪や因果応報を作品構成の方法として採用した、文章中心の読み物)『絵本太閤記』等から多くの逸話をとり、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ってから、天王山の合戦で豊臣秀吉に敗れて滅ぼされるまでの、いわゆる明智光秀の「三日天下]を題材にしており、当時大評判となっていた『絵本太閤記』の人気に便乗する形で、同時期に書かれている。
1823年 - ドイツ人医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、オランダ商館の医師として長崎の出島(鎖国時代の日本の対外貿易窓口)に着任する。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、出島内において開業の後、1824年には、出島外に診療所も兼ねた私塾「鳴滝塾」を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行なう。そこで、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、日本各地から集まって来た多くの医者や学者に講義している。代表として、医者・蘭学者の高野長英、蘭学者・医学者の二宮敬作、蘭方医の伊東玄朴、医者・蘭学者の小関三英、本草学者・植物学者の伊藤圭介らがいる。塾生は、後に医者や学者として活躍している。そして、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、日本と文化を探索・研究する。また、特別に長崎の町で診察することを唯一許され、感謝されている。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがオランダに戻るために離日する直前、所持品の中に、国外に持出すことが禁じられていた日本地図等が見付かり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保他、十数名が処分され、高橋景保は獄死する。当初の予定では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは帰国3年後に再来日する予定であったが、1829年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けてしまう(シーボルト事件)。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに対する追放令も解除される。翌1859年には、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日し、フランス公使やオランダ植民大臣ら等の要請に応じて、頻繁に日本の情勢についての情報を提供する。並行して、博物収集や自然観察等も続行し、風俗習慣や政治等、日本関連のあらゆる記述を残している。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝えると同時に、生物学、民俗学、地理学等、多岐に亘る事物を日本で収集、オランダへ発送している。これらは、西洋における日本学の発展に大きく寄与することとなる。
1837年 - モリソン号事件: 鹿児島湾で砲撃を受けたアメリカの商船『モリソン号』が退去する。
1851年 - アメリカの機械技術者、アイザック・シンガーがミシンの特許を取得。ミシンは、「織物(布)、皮、紙等を糸で縫い合わせるのに用いられる機械」である。日本語表記は、英語の「sewing machine(ソーイング・マシン)」の「machine」の音を示したものであり、「裁縫ミシン」の略が一般化したとされる。
1877年 - アメリカの天文学者、アサフ・ホールが、太陽系第四惑星、火星の第2衛星ダイモスを発見。ギリシア神話の神デイモスに因んで命名されたダイモスは、火星の第1衛星であるフォボスと共に、火星の重力に捕捉された小惑星と考えられている。
1883年 - オランダ西部にあるオランダ最大の都市、アムステルダムの動物園で飼育されていた、クアッガ(サバンナシマウマの一亜種)の最後の1頭が死亡し絶滅する。
1893年 - 文部省(現在の文部科学省の前身の1つ)が、「小学校祝日大祭日儀式唱歌用歌詞及楽譜撰定公示(明治26年8月12日文部省告示第3号)」を布告。『君が代』等8曲を祝日・大祭日の唱歌と定める。
1898年 - 米西戦争: アメリカ・スペイン両軍の戦闘が完全に終結。
1898年 - 共和制ハワイ国(アメリカの傀儡国家となっていた、名目上は共和制のハワイ共和国であるが、実質はハワイ王国であった)がアメリカに吸収合併され、アメリカ領ハワイとなる。
1914年 - 第一次世界大戦: イギリスがオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告。
1918年 - シベリア出兵: 日本軍がソビエト連邦の極東部にあるウラジオストクに上陸。
1935年 - 相沢事件。東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)にあった陸軍省の省内で、統制派(陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した陸軍内の派閥)の陸軍省軍務局長永田鉄山陸軍少将が、皇道派(天皇親政の下での国家改造[昭和維新]を目指した陸軍内の派閥)の相沢三郎陸軍中佐に斬殺される。統制派による皇道派追放への反発が動機で、その後の二・二六事件(1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件)に繋がったできごとの1つとされる。統制派の中心人物で、軍政(軍事諸機関や各部隊の建設維持、管理、教育等を実行する軍事行政)家として本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」等と評される秀才であった永田鉄山の暗殺によって、統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、永田鉄山が筆頭であった統制派は、第二次世界大戦対米英戦開戦を決断した東條英機が継承している。
1944年 - 第二次世界大戦・ノルマンディー上陸作戦: ファレーズ・ポケット(進撃してきた連合国軍に包囲されたドイツ軍が、その包囲網から脱出する為に発生した、フランス北西部にあるファレーズでの戦闘)が始まる。
1945年 - 第二次世界大戦: 日本政府の国体護持を条件とするポツダム宣言受諾に対し、連合国が無条件降伏を勧告する。
1945年 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 麻山事件。満州国(現在の中国東北部に所在)鶏寧県麻生区で、避難中の日本人開拓団がソビエト連邦軍に襲撃されて集団自決する。死者は421名とされている。
1946年 - 内閣所属部局(行政機関の内部組織)としての経済安定本部(後の経済企画庁、現在の内閣府の一部)と、内閣直属の補助機関(行政機関における執行機関の事務を補助するために置かれる機関)としての物価庁を設置。物価庁は、1949年から経済安定本部の外局(特殊な事務、独立性の強い事務を行なうための組織で、独任制の庁)となり、1952年に廃止され、その業務は経済安定本部物価局に移行されている。