8月10日 記念日 その2 | スズメの北摂三島情報局

スズメの北摂三島情報局

2011/08/02 リニューアル
2019/07/14 アメブロ移動
柴犬ハルがお伝えします

道の日(続き)。
1964(昭和39)年の東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)を1つの契機として、高速道路や都市高速道等が整備されていった。また、この頃からモータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)の進行で自動車の台数が急増し、昭和40年代は交通戦争と呼ばれる状態になった。公害も深刻化していたため、本格的に自動車や道路の対策が行なわれることになる。1986(昭和61)年12月から1991(平成3)年2月までの51ヶ月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象であるバブル景気の時代に入ると、道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。高速道路等、高規格幹線道路のネットワークは全国を網羅し、それを補助する地域高規格道路も整備が行なわれた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴なう負債が多くの自治体で問題となっている。日本では、車等が左側通行、歩行者が右側通行である。かつては、人も馬・車も道路の左側を通っていた。これは、侍が刀を左に挿しており、擦れ違う時に刀が触れないようするためと言われている、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が、アメリカ合衆国と同じく車が右側通行、歩行者が左側通行の対面交通とするよう指導した。しかし、日本の道路設備は左側通行に適するように作られており、これを右側通行にするには多額の費用が必要となることが分かった。そのため、車は今まで通り左側通行とし、歩行者のみ右側通行とすることとなり、1950(昭和25)年頃から実施された。第二次世界大戦前の沖縄県は、日本国内の他の地域と同じく、自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了後に沖縄を占領下に置いたアメリカ海軍政府が、(昭和20)年11月に出した指令により右側通行に変更され、1947(昭和22)年5月には、沖縄民政府(アメリカ軍政下の沖縄諸島における行政機構)により、右側通行を定める「自動車交通取締規則」が発布された。この日本本土とは逆の「自動車は右側通行」という状況は、1972(昭和47)年の本土復帰後も、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(沖縄復帰特別措置法、昭和46年12月31日法律第129号)」による規定の下で続いたが、右側通行は暫定的なものとされ、統一規則を定めることにより、国際道路交通の発達と安全を促進する目的で制定された「道路交通に関する条約(ジュネーヴ道路交通条約、昭和39年条約第17号)」による「一国一交通制度」を遵守する立場から、1975(昭和50)年以降、左側通行への切替を実施することが、「沖縄復帰特別措置法」の規定に基づいて策定された。当初、国は復帰4年後の1976(昭和51)年に変更作業の実施を検討していたが、1975(昭和50)年7月20日から1976(昭和51)年1月18日まで、沖縄返還、沖縄県の日本本土復帰記念事業として、沖縄県国頭郡本部町で行なわれた国際博覧会(特別博)、沖縄国際海洋博覧会(略称は「沖縄海洋博」「海洋博」)の開催が優先されたことから延期され、1975(昭和50)年6月24日の閣議により、1978(昭和53)年7月30日をもって、沖縄県内全域で左側通行に戻すことが決定され、1977(昭和52)年9月20日、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第五十八条第一項の政令で定める日を定める政令(昭和52年9月20日政令第268号)」の公布により、法定化された。これは、沖縄県の日本復帰を象徴的に示す、第二次世界大戦後の一大プロジェクトであった。この「730(ナナ・サン・マル、ナナサンマル)」は、自動車の対面交通が右側通行から左側通行に変更することを事前に周知するため実施されたキャンペーン名称であり、実施後は、その変更施行自体を指す通称となった。1978(昭和53)年7月29日22時より、沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、沖縄県警察本部から県内の警察署への無線連絡により、一斉に変更作業が開始された。変更作業は翌7月30日6時までの8時間で行なわれた。幹線道路では、予め左側通行用の標識や信号を設置した上で、それらをカバーで覆い隠しておき、変更作業時に、その覆いを外して、右側通行用の標識にかぶせ直す方法が用いられた。また、車線のレーン・右左折表示等の道路標示も、左側通行用の標示を予め描いた上で、黒のカバーテープで覆い、変更作業時にバーナーによってテープを除去する、という方法が取られた。これらの、覆いやカバーテープを用いた方法は世界初であり、「カバーアンドテープ方式」や発案者(沖縄県警の730現場責任者で、後に那覇警察署長を勤める久高弘)の名を取って「久高方式」と呼ばれ、短時間で効率よく作業を行なうことを可能にした。変更作業に際しては、約800名の作業員と約300台の車両が動員され、約19億円が投資された。僅か8時間という短時間での一斉切替えが可能であった要因の1つとして、当時の沖縄県には路面電車がなかったことが挙げられる。路面電車を自動車に合わせ、右側通行から左側通行にするには、全ての車両と乗降場の構造を変更する必要があり、その手間を考慮せずに済んだ訳である。路線バスは、乗降口を車両の右側から左側に変更しなければならなかったが、当時の最大の問題となったのが、右ハンドル・左側出入口車の導入資金であった。当時、モータリゼーション(自動車が社会と大衆に広く普及し、生活必需品化する現象)の進展と道路整備の遅れにより、既に沖縄本島南部を中心に慢性的な交通渋滞が発生しており、運行能率の低下や利用者の減少から、沖縄県内のバス事業者は、各社共多額の赤字を計上しており、自力での右ハンドル車への切替えは、財政上困難な状況であった。そのため、当時の琉球バス株式会社社長、沖縄県バス協会会長、那覇バスターミナル株式会社社長であった長濱弘を中心に、各バス会社社長による沖縄県知事と政府への陳情が行なわれ、1977(昭和52)年度、及び1978(昭和53)年度の両年度合わせて、国庫補助金(特定の施策を奨励するため等に、国が地方公共団体に交付する資金)92億6,200万円、財政投融資(大蔵省[現在の財務省と金融庁の前身]資金運用部が、郵便貯金や年金積立金等の資金を全額預かり、資金運用部から特殊法人[公庫や公団等]に融資する制度)63億円が認められた。右ハンドル車の導入方針としては、新車、又は中古車による代替、及び、右ハンドル・左側出入口車への改修によって対応することとなり、新車代替については、1台当たり60%の国庫補助、車両の改修については、全額が国庫補助となった。「730」実施前の沖縄県内の全バス事業者の左ハンドル車保有台数は、1,295台であったが、実施に伴ない、右ハンドル車1,019台が新車により導入され、3台の中古車を導入、また、167台の左ハンドル車が右ハンドル車に改修された。沖縄本島では、1,207台の左ハンドル車が存在したが、「730」実施に伴ない、右ハンドル車944台を新車で導入し、164台を右ハンドル車に改修することで対応した。なお、「730」実施前まで使用された左ハンドル車は「729車」、実施後に運行が開始された右ハンドル車は「730車」と呼ばれた。「730」施行により、バス停の行き先も逆になることとなったが、切替え当初は、従来のバス停から乗車し、反対の方向へ連れて行かれた乗客や、運転席側の右側の窓を叩き、乗車を求める乗客が多くいたようである。